第一話 汗の朝と、死んだ川
乾いた風が、河原の石を鳴らした。
かつては舟が通ったはずの大河は、いま白い骨みたいな石ころの道だった。ひび割れた泥のあいだに、魚の化石ではなく、去年まで使っていた桶と、捨てられた鋤が埋まっている。遠く、山の陰で何かが眠っていた。尾っぽだけが、枯れた湖の縁を一周している。竜だ。水を封じている、と村では言った。神罰だ、と神殿では言った。
その手前で、美少女たちが走っていた。
「遅い! 呼吸を肩でするな、腹で切れ!」
声の主は、朝日を背負った金髪だった。リリア・ヴァイスクロイツ。聖槍学院主席、騎士団若き団長。白い訓練胴衣の背中が、すでに汗で布目まで透けかけている。振り上げた木剣の下、二の腕の内側が一瞬だけ開く。脇の影。清潔なはずの学院石鹸とは別の、走ったあとの熱い匂いが、風下の村男たちまで届いた。
誰も、川の死骸より先に、そちらを見ていた。
世界は滅びかけている。なのに、一番目立つ場所には、一番きれいな女子が立っている。
――おかしな話だ、とトオルは思った。
彼は雑役の列のいちばん後ろで、給水用の皮袋を抱えていた。十日前まで、自分は蒼井透という名前の、日本のどうということもない大学生だった。事故の瞬間は覚えていない。覚えているのは、こちら側で十七になる直前、頭の中に「もう一つの人生」が落ちてきたことだけだ。
転生。異世界。竜。騎士。
ラノベの棚で見た記号が、汗の匂いと一緒に実在していた。
「おい、拾い物。 Recruits に水を回せ」
隣の年嵩の従者が顎で示す。拾い物、がトオルの公式な地位だった。辺境の孤児院から学院の馬小屋へ流れ着いた補給係。剣の才もない。魔力も薄い。あるのは、死ぬ前に読んだ本の残りかすと、この世界の人々がまだ持っていない「壊れ方の地図」だけだ。
給水袋を担いで砂地を横切る。訓練場は河原を再利用した平坦地で、靴底に古い川の匂いがしない。水の記憶だけが、石に白い線を残している。
リリアが足を止め、木剣を肩に担いだ。金髪が汗で頬に貼りつく。彼女は最初から完成している人間だった。家柄、顔、成績、武芸。スクールカーストという言葉を、この世界の誰も知らない。知らないまま、同じものを運用している。
「……また見てるわね」
トオルではない。列の向こうの村の若者たちへ、リリアは一瞥をくれた。軽蔑とも、慣れともつかない目。クイーンビーは、見られることを知っている。見られること自体を、権威の一部にしている。
トオルが皮袋を差し出すと、リリアは Indirect に受け取らず、副団長へ顎をしゃくった。
「セレナ。計量して」
「了解」
黒髪ロングの少女が、無言で袋の口を検めた。セレナ・ナイトシェイド。主席に次ぐ成績と、主席に次ぐ剣。感情を声に出さないぶん、呼吸と汗でしか漏れない。鎖骨のくぼみに光が溜まり、彼女が身を屈めた拍子に、薄い下着鎧の脇がわずかに開く。トオルは目を逸らした。逸らしても、熱だけは残る。この世界の夏は、気候が壊れているせいで乾いているのに、人体のほうは普通に水を出す。
「雑役。名は」
セレナが、袋ではなくトオルの顔を見た。
「トオルです」
「家名は」
「ありません」
「なら、数字で呼べ。今日の給水量、午前で十八袋。午後は日射で増える。二十は用意」
事務的だった。侮辱ではなかった。リリアが人をカーストで見るのに対し、セレナは人を容量で見る。どちらが残酷かは、まだ分からない。
「はいはーい、水待ちー」
赤髪が滑り込んできた。アリア・レッドホーク。槍専。学院の運動場で一番速く、一番よく汗をかく。胴衣の腹あたりが布ごと貼りつき、走ってきた勢いのままトオルの袋に顔を突っ込む。石鹸より先に、土と鉄と少女の匂いがした。
「うまっ。いや水だから味ないか。トオル、お前の水、冷たくて好き」
「日陰に置いただけです」
「それが才能だよ。リリア様は才能で人を斬るけど、お前は才能で人を生かす」
「不用意な口をきくな」リリアが短く言った。「拾い物を過大評価すると、組織が緩む」
「えー、団長またそれ。過大評価って、水運んだだけだぞ?」
「水は誰でも運ぶ。問題は、誰の前で跪くかよ」
リリアの声は訓練用に張りつめている。朝日が彼女の睫毛の汗を粒にする。トオルは、現代の教室で見た「一番かわいくて、一番強くて、一番手が届かない女子」の完成形を、そこに見た。違うのは、こちらにはチアリーダーのポンポンがなく、代わりに木剣があることだけだ。
給水が一段落すると、列の端で銀髪の少女が手を洗っていた。ミレイユ・サンクチュアリ。神官見習い。傷の洗浄と熱病の仕分けが仕事で、祈りは二番目だと本人が言っている。白い袖を肘までまくり、手首の静脈が透ける。彼女だけは河原を見ていない。河原の「あと」を見ている。病人が出る場所、汚物が流れる場所、死体を埋める場所。
「トオル」ミレイユが、洗った手を振らずに呼び止めた。「その袋、病人用と分けるように。熱のある従者が二人いる。同じ口を付けさせない」
「神殿は、熱を神罰だと言ってませんでしたか」
「神罰でも菌は移るわ。名前はどうでもいい」
彼女の言葉は、トオルの記憶にある本の端と重なった。聖人はしばしば、医者であり、土木屋だった。奇跡の中身は、手順だった。
遠くで、鐘が鳴った。学院の朝課。河原の臨時訓練は、本来は例外である。例外が常態になっている。川が死んでから、騎士候補生は「名誉の剣」より先に「渇きの行進」を教えられるようになった。それでもカリキュラムの表紙は変わらない。家名、席次、美貌、武勲。頂点の女子たちが、崩壊の一番目立つ位置に立ち続ける。
トオルは皮袋を締めながら、死ぬ前の自分の部屋を思い出した。安い本棚。災害史と古代史の新書。軸の時代、干ばつ、帝国、竜殺し。当時は、レポートのネタだった。いまは、足の裏の砂だった。
(祈っても雨は降らない。降らないから、人は別のものを信じ始める)
そのとき、リリアが木剣を地面に突き立てた。
「本日の課目を変える。迎撃想定。上流から“それ”が降りてきた場合の、最初の三十呼吸」
“それ”は、誰も竜と呼ばなかった。名前を付けると、神殿の許可が要る。許可のない恐怖は、ただの気象になる。
列が動く。セレナが左翼、アリアが突進、リリアが中央。汗の粒子が朝日に散る。トオルは後ろで、転倒した下級生の水筒を拾った。誰も見ていない位置で、彼だけが河床の白い線を数えていた。旧水位。一昨年。昨年。今年。階段のように下がっている。竜のせいだけにしては、あまりに整っている。
「雑役」
リリアが、訓練の合間に振り返った。金髪が頬に張り、呼吸は乱れていないふりをしている。乱れている。脇の影が、剣を担ぎ直すたびに開閉する。トオルは視線を固定した。固定すること自体が、この世界では一種の礼儀だった。見ないふりをするか、見ることを権力の一部にするか。中間はない。
「お前、さっき川を見て笑っていた」
「笑ってはいません」
「なら、何を計算していた」
「減水の速さです。竜が一匹で飲む量にしては、減り方が広い。堰が死んでいるか、上流で誰かが止めているか」
一瞬、河原が静まった。アリアが「お」と口を開け、セレナが目だけ細めた。ミレイユは手を拭く動作を止めなかった。
リリアの美貌が、少しだけ剣になる。
「素人の想像で、団の士気を削るな」
「想像です。証拠はありません」
「なら黙れ」
「黙ります。ただし袋は二十用意します」
対立、というほど綺麗な形ではなかった。クイーンビーが、カースト外の男の言葉を一度咀嚼し、飲み込めずに吐き出しただけだ。それでも彼女は、トオルをその場で追い返さなかった。数字の二十だけは残した。
訓練が終わるころ、風向きが変わった。
山のほうから、甘い腐臭が混じる。水のない川特有の、泥が焼ける匂いではない。生き物の匂いだ。竜の巣が近い日は、こうなると従者たちが噂していた。アリアが鼻を鳴らす。
「うわ、今日ひど。リリア様の香水じゃ勝てないやつ」
「香水など付けていない」
「付けてないのが問題なんだよ。みんな素のまま香る」
軽口の下で、誰もが身体を知っている。戦う女子は、綺麗なままではいられない。汗は透かし、布は貼り、金属は熱を返す。男たちがそれを喜ぶことも、学院は公式には知らないことにしている。非公式には、募集ポスターの構図がそれを知っている。
トオルが最後の袋を担いだとき、神殿から使者が走ってきた。白い衣の裾が砂を蹴る。
「団長殿! 神官正の伝言です。昨夜、上流の監視小屋が沈黙しました。井戸が……井戸が、白く乾いたそうです」
リリアの背中の汗が、一句で別の意味になる。訓練の汗から、出撃の汗へ。
セレナがすでに木剣を正式な刃の置場へ戻す目配せをしていた。アリアは槍の石突きを地面にトントンと打ち、気持ちを切る。ミレイユは薬箱の位置を確認する。頂点の女子たちは、美しいまま、災害の手順書になる。
トオルは皮袋の重さを測った。水は十八袋分しか残っていない。セレナの指定は二十だった。二袋分の不足が、今日という日の形をしていた。
リリアが振り返る。朝日が、彼女の虹彩の金を苛立たせる。
「雑役。トオル」
初めて、拾い物以外の呼び方をした。
「荷を組め。見学ではない。お前は口を出した。出した口は、現場まで連れていく」
「はい」
「ただし」彼女は木剣を納め、本物の細身を腰に当てた。「川の死に方を、私の騎士たちより先に語るな。語るなら、斬ったあとにしろ」
トオルは答えた。現代語のまま、心の中だけで。
(斬っても、雨は戻らない)
声には出さない。出したら、この話は第一話で終わる。終わらせないために、彼は袋を担ぎ直した。
列が河原を離れる。死んだ川が、後ろで光る。山の尾根の向こう、枯湖を巻く黒い線が、ゆっくりと動いたような気がした。竜か。風か。あるいは、水を止める人間の工事か。
聖槍学院の尖塔が、乾いた空に刺さっている。あそこで少女たちは席次を争い、男たちは彼女たちの汗を物語にする。カーストは、文明が壊れても最後まで残る道具だ。残るからこそ、次に来るもの――新しい竜、新しい帝国、新しい祈り――の台座になる。
トオルは空を見た。衛星はない。予報はない。ハーバー・ボッシュもない。あるのは、汗で張りついた白い胴衣と、減水の白い線と、十日前に頭へ落ちてきた他人の知識だけだ。
「行きますよ、トオル」
アリアが先を歩きながら手を振った。赤髪が汗で一房だけ暗い。普通の女子高生なら部活のあとだ。ここは部活のあとに、井戸の死骸がある。
「ああ」
彼は答えて、死んだ川から離れた。
離れた先で、第一の竜が、まだ名前を待っていた。
――第一話 了――




