第二話 白い井戸と、先に語るな
監視小屋は、半日で着く距離にあるはずだった。
はず、がもう死語になっている。旧街道の真ん中で轍が消え、代わりにひび割れた泥の板が続いていた。かつて水路だった道を、人が歩いている。水の記憶だけが、靴底に白い粉を付ける。
リリアは先頭を歩かなかった。先頭は斥候のセレナ。団長は二列目で、旗より剣を近くに置く。正しい配置だ。正しい配置なのに、列の誰もがリリアの背中を見ていた。白い胴衣は行軍用に厚手へ替えてある。それでも乾いた風と汗は布を身体に貼りつける。金髪が首筋に張り、時おり剣の位置を直すたびに、腕の内側が開く。
見られることを、彼女は知っている。知ったうえで、見られる位置に立ち続ける。頂点の女子は、戦場でも教室でも、メディアである。
トオルは荷馬の轡を握っていた。十八袋の水。セレナの指定は二十。足りない二袋は、誰の喉から削るかという問題になる。
「雑役」セレナが足を止めず言った。「袋の順番を変えろ。病人用を日陰側。開封済みを最後尾」
「了解」
「お前、小屋の見取りを知っているのか」
「地図では知っています。現地は知りません」
「なら、現地で口を出すな。数字だけ出せ」
セレナの声は乾いている。彼女自身も乾いている。黒髪が頰に貼り、表情は変わらない。変わるのは呼吸の間隔だけだ。トオルは、この子がカースト二位である理由を理解し始めていた。一位が物語で人を動かし、二位が容量で人を生かす。
アリアは時々列を外れて小高い丘へ走る。槍を杖代わりに、地平を見る。戻ってくるたびに赤い髪が汗で一色濃くなり、襟元が胸の形を拾う。本人は気にしていない。気にしているのは後列の男たちで、気にしている事実をリリアは一瞥で殺す。
「見るなとは言わない」リリアが低く言った。「見て、歩け。止まった者は置いていく」
クイーンビーの統治は、禁欲ではなかった。視線を行軍の燃料に変える。トオルは現代の体育館を思い出した。試合のあと、一番速い女子が床に座って水を飲む。周囲の男子が、水より先にそこを見る。構造は同じだ。違うのは、ここでは水が比喩ではないことだけだ。
半日が、実際には一日になった。街道が三度途切れ、迂回路が旧河床へ落ちた。ミレイユが途中で従者の一人を座らせる。熱がある。唇が白い。
「水は少量。連続で飲ませるな」ミレイユは袖をまくり、濡れ布で額を拭いた。「神殿の祈りはあとでいい。いまは体温」
従者が神官見習いの手首を見て、安心した顔をする。聖性は、手順の形をしているときに一番よく効く。トオルはその光景を、死ぬ前に読んだ本の余白へ書き込んだ。行基も空海も、まず土を動かし、あとから物語が追いついた。
夕方近く、監視小屋が見えた。
見えた、というのは正確ではない。小屋の形をした影が、白い地面の上に座っていた。屋根は残っている。壁の一部が内側へ倒れ、井戸の覆いが開いたままになっていた。風が、井戸の口から音を返さない。水がある井戸は、低い呼吸をする。この井戸は、口を開けた死骸だった。
リリアが手を上げ、列が止まる。
「セレナ、左。アリア、屋根。ミレイユは熱の男を下げて。雑役は――」
「袋を開けません」トオルが先に言った。「井戸を見るまで、開封済みに手を付けない」
リリアの目が細くなる。先に語るな、と言った相手が、また語った。
「……いいわ。ただし私の後ろ。剣の届く位置」
小屋の前に、靴が二足あった。中身のない靴。中身は、井戸の縁で見つかった。監視兵は二人。一人はうつ伏せで、喉の前に爪痕ではなく、乾いた白い線がある。もう一人は井戸を覗き込んだ姿勢のまま、腕が中へ落ちている。血は少ない。血より先に、水分が奪われていた。
アリアが屋根から降りて、顔をしかめた。
「うわ。斬られてない。絞られたみたい」
「竜の幼体は、噛むより先に湿気を吸う」セレナが淡々と言った。「伝承では」
「伝承は、観測の捨て台詞です」トオルが縁に膝をついた。
井戸の底は遠かった。本来なら水面が光る位置に、白い殻のようなものが張りついている。塩ではない。塩にしては模様が放射状だ。中央に、小さな窪み。誰かが――あるいは何かが――底の水を最後まで舐め、残りを固めていった跡。
リリアが隣に立つ。汗の匂いと鉄の匂いが、同時に落ちてくる。団長の影が井戸を覆い、一瞬だけトオルの視界が暗くなる。彼女は屈まない。屈むと胴衣がさらに貼り、頂点の形が崩れることを知っている。崩さないまま、声だけを落とす。
「結論を言え。斬ったあとでいい、とは言った。これは斬る前だ」
「水が死んでいます。死に方が、蒸発だけではない。誰かが最後の層を固めた。竜なら、唾液か、魔力の残渣。人なら、石灰か、乾いた粘土の詰め物」
「どちらだ」
「今は両方です。区別する道具がない」
リリアが舌打ちした。美貌のまま、不機嫌は少女のそれだ。学院の廊下なら、この顔でクラスが凍る。ここでは井戸が先に凍っている。
小屋の中は、もっと静かだった。机の上に日誌。最後の記述は三日前。
『水位、昨日より指二本。臭い、甘い。山側に尾を見た。尾は、杭のように等間隔』
トオルの指が、その一行で止まった。
杭のように等間隔。竜の尾はうねる。うねるものは、等間隔にならない。等間隔になるのは、杭か、測量の標か、堰の支柱だ。
(先に語るな)
彼は日誌を閉じ、リリアへ渡した。渡すだけにする。解釈は、彼女が斬る権利を持つ場所で出す。カーストの作法は、時に兵站と同じくらい人を生かす。
リリアは頁を開き、金色の睫毛の下で文字を追った。追っているあいだも汗が頰を伝い、顎の先で落ちる。落ちた汗が日誌の端を滲ませる。滲んだ位置が、ちょうど『等間隔』の上だった。
「……山へ行く」彼女が言った。「今夜は小屋を使わない。風下に野営。井戸の水は禁。袋の水だけで朝まで持つ計算を出せ」
「十八袋。熱の男を分けると、戦闘員は明朝まで一口ずつです」
「なら一口にしろ」
非情に聞こえる。中身は配分だ。クイーンビーは、美貌で人を従わせたあと、数字で人を削る。削り方を知っている女が、乱世では聖女より先に必要になる。
野営は、井戸から二百歩。アリアが浅い窪みを掘り、風除けにする。掘る動作で肩が上がり、脇が開く。夜の冷気がそこへ入る。彼女は「ひっ」と小さく鳴いて、すぐに笑った。
「裸のほうが涼しくない? 冗談だよ、団長。斬らないで」
「斬らない。ただし冗談の許可は夜まで」
焚火は小さくした。大きい火は、甘い臭いを遠くまで運ぶ。ミレイユが熱の男に湿布を替え、自分の額も拭く。銀髪が火に赤く見え、神官服の脇が汗で色を変える。聖女枠の清潔さは、現場ではすぐ汚れる。汚れた聖性が、いちばん信用される。
トオルが袋の口を数えていると、セレナが黙って隣に座った。距離は剣一本。近づきすぎない。離れすぎない。容量の女の距離感だ。
「日誌を、読んだな」
「はい」
「等間隔、が引っ掛かった顔をしていた」
「顔に出ましたか」
「出る。お前は剣は二流だが、隠し方が三流」
それは、ほめ言葉に近かった。セレナの世界では、観測できる欠点は資産だ。トオルは焚火を見たまま答えた。
「竜の尾は等間隔にならない。人が打った杭ならなる」
セレナの黒髪が、頷くたびに火を反射する。彼女はリリアに報告しない。報告の順番を、団長の顔に残している。二位の忠誠は、一位の物語を壊さない形で真実を運ぶ。
夜が深くなる前、山側で音がした。
水の音ではなかった。乾いたものが、乾いたものを踏む音。アリアが先に槍を立て、リリアが細身を抜く。抜刀の軌道で金髪が舞い、 Sweat の冷えた粒が飛ぶ。美しい。美しさが、恐怖の手前で列を繋ぎ止める。
影は、幼体だった。
馬ほどの長さ。翼は未発達。皮膚は湿っているのに、通った跡の泥は白い。水を体内へ引き、地面から潤いを剥がす。伝承どおりの動き。伝承どおり、という安心は三秒で壊れた。幼体の後ろに、等間隔の杭が見えたからだ。短い杭。新しい削り屑。杭の先に、帝国で使うらしい焼印が沈んでいる。
リリアが先に跳んだ。
剣が幼体の眼下を払い、アリアの槍が腹を止める。セレナは側面から腱を切った。三人の動きは学院の演武そのもので、演武なのに土と血と Sweat が混ざる。胴衣が裂け、リリアの脇腹に泥が走る。女王蜂の皮膚が、泥の下で普通の女子の熱を出す。男たちの呼吸が、そこで一度乱れた。乱れたまま、彼らは後ろを守る。欲望は、時に隊列を崩し、時に隊列を維持する。
幼体は長くは持たなかった。水を封じるほど大きくない。問題は死体ではない。杭だ。
トオルは、リリアが剣を振り上げたあとに近づいた。先に語らないための順番を守る。幼体の血は少ない。少ない血のそばで、杭の焼印が月明かりを返す。
リリアが靴で杭を倒した。金髪が垂れ、呼吸がやっと肩に出る。見られるための姿勢が、三十呼吸だけ崩れる。その崩れ方を、トオルは見てしまった。見てしまったことを、彼女も知っている。知ったうえで、剣の先を焼印へ向ける。
「語れ」
「斬ったあとですか」
「斬った。語れ」
トオルは杭を拾い、焼印を列に見せた。
「竜はいました。でも、この間隔を打ったのは竜ではない。誰かが幼体の通る道に標を打っている。水の減り方を測っている。測っている者は、少なくとも小屋の兵より新しい」
夜風が、白い井戸のほうから甘い臭いを運んできた。腐臭と、少女たちの汗と、焼けた印の鉄臭が同じ層になる。
リリアは細身を納めなかった。納めないまま、山の稜線を見た。稜線の向こうで、何かが杭よりも真っ直ぐな線を引いていた。運河にしては早い。街道にしては暗すぎる。
「拾い物」
「はい」
「お前の想像は、私の剣より先を歩く。嫌いだ」
「分かります」
「嫌いだが、明朝も荷を組め。袋は十七になる。一口をさらに削る」
アリアが「げっ」と言い、ミレイユが薬箱を閉じ、セレナがすでに明朝の配分を目で計算していた。頂点の女子たちは、美しいまま、不足を統治する。
トオルは白い井戸を振り返らなかった。振り返ると、死んだ水面の代わりに、等間隔の杭がどこまでも続く気がしたからだ。
竜は、もう一匹ではなかった。
竜の前に、測量が来ていた。
――第二話 了――




