第二十九話 後脚
六リットルは、布に染みて射手の口へだけ渡った。
渡した瞬間、床の袋は空になる。空を、トオルは剣の届く距離で確認した。確認した数字に、次の予備はない。ないあいだに、影の後脚が土を蹴った。蹴った振動が、胸の埋没を一度だけ持ち上げる。持ち上がった隙間から、甘い息が噴き出した。
「浮いた」アリアが石垣から叫んだ。「胸が浮いた。浮いた隙間を、後脚が広げる。広げる前に、上を落とせ」
落とせ。弓がすでに限界だ。限界の矢を、セレナが一点に集中させる。集中した土が、浮いた隙間へ落ちる。落ちる量が、蹴る力に追いつかない。追いつかない振動の中で、リリアが川床へ再度跳んだ。跳んだ背中の Sweat が、空の袋と同じ乾きを帯び始めている。帯びた旗を、影の目が痛みごと捉える。
「寄せるな。寄せて抜け道を自分で塞げ」キリカの声が、柱から切れた。「傷のある側へ。側へ体重を乗せれば、浮いた胸が再び落ちる。落ちるあいだに、後脚の踏ん張りが外れる」
外れる。細身が、角の手前の黒い滲みを浅くなぞるのではない。なぞる位置を、関節の下へずらした一閃だ。一閃が、皮を前回より深く割る。割れた滲みが、土に太い線を引く。引いた痛みで、頭が大きく上を向いた。向いた間に、浮いた胸が自重で落ちた。落ちた土が、隙間を再び塞ぐ。
「落ちた」トオルが足幅の収束を読んで言った。「胸は再埋没です。ただし後脚の左が、抜けかけています。抜けた一本が、次の支点になる。支点を、弓で土ごと崩せます」
「崩せ」リリアが号令した。号令の声が、初めて渇きでかすれる。かすれた旗の Sweat が、川床の光で白い塩を浮かせる。浮かせた背中を、影は見る対象のまま睨む。睨んだ目の前で、石垣の矢が左の後脚の足元を打つ。打たれた土が、支点を崩す。崩れた脚が、半拍遅れて沈む。
門の外で、外套の男が杭を持たなかった。
持たない手が、初めて空の樽ではなく、埋まった影そのものを見ている。見た顔は、線の送り直しを捨て、成体の自力を待つ手の顔だ。待つ目が、石垣の金髪を測る。測る仕事だけが、旗局の命令として残っている。
クラッドが下から香水を薄く残した。残した口が、右隣のつもりで川床を見る。見る旗の胴衣は、Sweat と砂と黒い滲みと、袋の切れた乾きを同時に帯びている。帯びた旗を、彼は慈悲の翻訳へ載せる。
「袋が切れた。切れた内側は、影より先に乾く。乾く前に本印を出せ。出せば、埋まった影は予備の内側の話になる」
「出さない」防衛卿の声が落ちた。「緊急は防いでいる。防いでいるあいだ、袋の切れは防の結果だ。結果に本印は重ねない」
重ねない。空白が、袋の最後のあとも本契約を拒む。拒んだ空白の下で、ミレイユが射手の唇を一度だけ見た。見た渇きを、医の顔で切る。
「六リットルは配った。配った先に、次はない。次がないあいだ、射線は持たない。持たない前に、埋没を固定しろ。固定は矢ではなく、旗の寄せだ」
寄せだ。リリアが細身を低く構え、傷のある側へ半歩寄った。寄った Sweat の匂いが、影の鼻を痛いほうへ引っ張る。引っ張られた頭が、再び自重を胸の土へ乗せる。乗せた重さが、後脚の抜けかけを押し戻す。押し戻したあいだが、空の袋のあとの最初の勝ちだった。
勝ちは、影を倒していない。倒していない影が、四本の脚をすべて土の感触の中で探している。探している間に、甘い臭いが土に吸われて薄くなる。薄くなった息を、キリカが本数の外で測った。
「動けない。動けないが、死んでいない。死んでいない影を、机はまだ待つ。待つあいだに、内側の喉が先に震える。震える前に、棚の紙を父上の空白の横へ置け。置いた紙が、袋の切れたあとの根拠になる」
根拠。トオルは空の袋を、剣の届く距離で畳んだ。畳んだ布に、水の跡はない。ない跡を、床に置いたまま、彼は埋没の深さを再度読む。読んだ先で、前脚も肩も胸も、後脚も、土の中にある。ある影の尾だけが、小さく揺れている。揺れている風が、石垣の砂をもう上げない。上げない沈黙の中で、誰も魔王とは呼ばない。呼ばないまま、袋は切れた。切れたあとの川床に、旗の Sweat だけが垂れ続けている。
――第二十九話 了――




