第二十四話 川床
半歩のずれは、旗がもう一度左へ動いたときに一気になった。
一気、を作ったのは斬撃ではない。石垣の折り返しから、リリアが三段跳んだ軌跡だ。跳んだ背中の白い胴衣が Sweat で張り、張りついた旗が川床の縁まで影の目を引っ張る。引っ張られた頭が、門の蝶番から完全に離れた。離れた体重が、枯れた土を踏む。踏んだ音は、杭の線の外の音だ。
「乗せた」アリアが槍を突きながら短く叫んだ。「線の外だ。外の鼻は、次の杭を探している。探しているあいだに、残りの杭を折る」
残りの杭。門の正面に近い三本を、石垣の弓と槍が連続で突く。突かれた木が傾き、折れる。折れる音が小さいほど、誘導の残りが速い。速い崩壊を、キリカが本数の外で追った。追った声が、柱の陰から現場へ混ざる。
「三本折れれば、正面の線は消える。消えた鼻は、川床の低い方へ下がる。下がった先に水はない。ないことを、甘さで再確認する。確認のあいだが、旗の休憩だ」
休憩。トオルは五袋のひとつから、旗の隣へは水を出さなかった。出さない代わりに、折れた杭の角度と、影の足幅を床に指で描く。描いた幅が、家なしの計測を戦場の地図にする。地図を、剣の届く距離でリリアに見せる。
「川床の縁まであと二歩です。二歩を旗で誘えば、門の射線から外れます。外れたあとは、石垣の弓が角の手前を狙えます」
「誘う」リリアが細身を再度左へ振った。振った軌跡に、金髪の滴が飛ぶ。飛んだ Sweat が、乾いた川床の砂に小さな点を作る。点を、影の目が追う。追った頭が、二歩を一気に踏んだ。踏んだ先で、門の正面が初めて空く。空いた射線に、セレナが短い合図を落とした。
「打て」
弓が、角の手前を狙った。狙った矢は、鱗を貫かない。貫かない矢が、それでも鼻先の軸を一度ずらす。ずらした間に、甘い臭いが門から遠ざかる。遠ざかった臭いを、ミレイユが医の顔で測る。
「濃度が下がった。下がった肺は、石垣の上で持つのに足りる。足りるあいだに、川床の下流へ押し切れ」
押し切れ。影が、水のない土の上で頭を振った。振った鼻が、折れた杭の列を再度探す。探す先に線はない。ないことを、成体は線の外で二度目に知る。知った頭部が、旗の Sweat だけを頼りに左へ寄る。寄った先は、さらに低い川床だ。
門の外で、外套の男が動いた。
動いた手が、測る役の箱から短い杭を一本出した。一本を、閉じた門の外の土へ斜めに打つ。打った焼印が、棚の破片と同じ手だ。同じ手が、折れた線を現場で送り直そうとする。送り直しを、石垣のアリアが槍で先に見た。
「外で杭を打ってる。打った一本が、新しい線の起点だ。起点を残せば、影が門へ戻る」
「残すな」リリアが号令した。「門は閉じたまま。閉じた門から出るな。出た瞬間、緊急の所管が外へ漏れる。漏れる前に、弓で起点を狙え」
弓が、門の外の短い杭を弾いた。弾かれた木が、外套の男の足元で折れる。折れた焼印を、セレナが石垣の上から目で写す。写した形が、物証の九枚目になる。九枚目を、クラッドが下から見て笑った。笑いの香水は薄い。薄い口が、右隣のつもりで旗を見上げる。
「線を折っても、影は残る。残った影を斬れない旗は、空の井戸の責任を負ったままだ。負ったままの慈悲を、机は何度でも送り直す」
「送り直しを、門の外で折った」防衛卿の声が、遠くから落ちた。「折った先の本印は、今日も出さない。出さないあいだ、客の杭は客の杭だ」
客の杭。外套の男の目が、一度だけ細くなる。細くなった顔は、机の手としては短い敗北だ。短い敗北を、彼は最後の一樽に手を置いて回収しようとする。回収する慈悲を、閉じた門は受け取らない。受け取らない石垣の上で、影が川床のさらに下へ半歩落ちた。
落ちた。キリカの声が、本数の終わりで一度だけ高くなる。
「川床に乗った。乗った鼻は、旗を見失いかけている。見失ったあいだに、旗は門の正面から脱げ。脱いだ旗を、影が再捕捉する前に、石垣の陰へ移せ」
移せ。リリアが階段を駆け下り、石垣の陰へ入る。入った背中の Sweat が、日陰で一気に冷える。冷えた旗を、影の目が探す。探した頭が、門ではなく川床の低い方を向いたまま止まる。止まった息が、甘い臭いを下流へ吐く。吐いた先に水はない。ない川床が、今日の二度目の勝ちだった。
勝ちは、影を倒していない。倒していない影が、水のない土の上で線の再送を待っている。待っている間に、トオルは五袋を四と少しに数えた。数えた数字を、剣の届く距離で置いたまま、彼は川床の足幅を追う。追った先で、焼印の欠片がもう一本、土に混ざっている。混ざった欠片を、セレナが帳面へ写す。
門の外で、最後の一樽が空になった。
空の箍が石に残り、客の側の慈悲が在庫を失う。失った在庫を、外套の男は日程の誤差として処理する。処理した顔の奥で、手の角がまだ出ない。出ない角を、誰も魔王とは呼ばない。呼ばない沈黙が、川床の影と閉じた門のあいだに落ちている。落ちた沈黙の上で、リリアの貼りついた胴衣が日陰の Sweat を垂らす。垂らした滴が、斬る側の旗の残り熱だった。
――第二十四話 了――




