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 さて、これらの前提をもとに、わたしの中に認められる第二の異物について解析しよう。今までに述べてきた事象を説明変数として、ベイズ線形回帰モデルもしくはマルコフ連鎖モンテカルロ法を用いて、ぶよぶよとした記憶の死骸の中から第二の異物の本質へと迫ってみよう。もちろんそれは統計的な推定に過ぎないと言う批判もあるだろう。しかしアンドレイ・アンドレエヴィチ・マルコフ自身、十歳になるまで松葉杖なしでは一歩も歩くことができないほどの障害を抱えていた人物で、ペトログラードで初めて彼に会った時も、彼は少し片足を引きずるようにして、部屋に入ってきた。

 白髪、白髭を蓄えた長身の老人。わたしは立ち上がり、彼に近づいたが、彼の躰からは薬草のような匂いがした。あるいは建物自体が随分と歴史を感じさせる建物だったので、家屋内の黴などの匂いが、彼が歩いてきたことによって放散されたのかもしれない。握手を交わしたあと、彼はわたしに座るように勧め、自分も背凭れと肘掛けのある大きめの椅子に腰かけた。両手を肘掛けにのせて座っている彼の姿は、肩幅が異常に狭く、立っているときに比べて何倍も年を取ったように感じられた。

 当時のペトログラードはすでに電力網も整備されていたが、内政の混乱により電力供給は壊滅的な状態だった。燭台の光に照らされた室内は薄暗く、そこに力なく座っている老人の姿は霊魂めいた印象を与えた。

 ユーデニチ将軍率いる北西軍の話や確率論の話をしたあと、

「弟が死んだので、本当に一人になってしまったよ」と、なんの脈絡もなく彼は呟いた。しかし彼の弟、つまり同じ数学者であったウラジーミル・アンドレエヴィチ・マルコフが死んだのは、もう数十年も前の話しだ。

 そのとき彼の妻、マリア・イヴァノヴナ・マルコワがザヴァールカやヴァレーニエ、それに熱湯を入れたサモワールなどを載せたトレイを抱えて部屋に入ってきた。

「おい、ジジイ、何やってるんだ (Эй, дедуля, Какого хрена ты делаешь?)」と彼女がマルコフ氏に言ったので、わたしは驚いで彼女の顔を凝視した。

「まあ、気にせんでください」と、マルコフ氏はわたしの驚愕を見て、困惑を含んだ笑顔を浮かべながら言った。「いつものことでしてね」

「へらへら笑てるんじゃないよ、死にぞこない (Перестань ухмыляться как идиот, смертный.)」と、しかし彼女はその後も悪態を吐きながら紅茶の道具をテーブルに置くと、そのまま部屋から出て行った。

 その時のマルコフ氏の歪んだ笑顔をわたしは今もまざまざと思い出すことができる。

 恥辱と困惑を隠そうとするかのような作られた笑顔。

「いつもは大人しい奴なんですが、お客が来るといつもああなるのです。なぜだか分りませんがね」

 そして何事もなかったかのように確率論の話を続けた。明らかに彼は今見た一件をなかったことのように扱おうとしていたし、また同時にわたしにも今の事件がなかったように振舞うことを強要しているように思えた。

「最近はどうもトイレが近くなりましてね」

 話が一段落した時に彼はそんな言い訳をして重い腰を上げ、部屋から出て行った。が、少しすると部屋のドアが静かに開き、マリア・イヴァノヴナ・マルコワが入ってきたのだった。わたしは先ほどの一件があったので、少し驚いたような、あるいは怯えたような顔つきになっていたかもしれない。

「先ほどは大変失礼いたしました」と、しかしマリア・マルコワは立ち上がったわたしに近づくと小声で言った。「さぞ驚かれたことでしょう。実はあれはお芝居でございまして、主人からお客様が来た時には、ああするようにと、きつく言われているのです。何か良からぬ企みがあるのかもしれませんが、わたくしは恐ろしくて、言われるままにお芝居をしているのでございます。わたくしがこのようなことを申し上げたことは、どうか主人には内緒にしておいてください」

 それだけ言うと彼女は夫が戻ってくることを恐れてだろうか、わたしに背を向けて小走りに部屋を出て行った。

 わたしは少し困惑していた。あまりにすべてが芝居掛かっているように思えた。あるいは夫婦が共謀してわたしを騙して楽しんでいるのだろうかと疑った。天才と言われる人物には奇人変人が多いと言うが、あるいは彼もそうした奇人のひとりだろうか。

 暖炉に燃える火と燭台だけに照らされた部屋の壁に楕円形の鏡がかかっていて、その中にも燭台の火が煌めいていた。わたしはなぜかその鏡を見るのが怖かった。

 暫くわたしはその場に立ち尽くしていたが、もう一度肘掛椅子に腰を下ろし、マルコフ氏が部屋に戻ってきたとき、今の夫人の話をしたものかどうかと考えた。黙っていたならば夫人との約束を守ったことになるが、同時に氏に対する軽い裏切りになるのではないか。もし二人が共謀してわたしの反応を楽しんでいるのだとしたら、これはいい試金石になる。わたしがマルコフ氏の言葉を信じるのか、夫人の言葉を信じるのか。

 わたしは自分の考えが纏まるまで、氏に戻ってきてほしくなかった。そしてそんなわたしの思いが分かってでもいるかのように、彼はなかなか戻ってこなかった。暖炉にくべた薪の爆ぜる音だけが、静かな部屋の中に微かに聞こえていた。

 それにしても遅い。

 わたしは不安になってきた。マルコフ氏が席を立った時間を計っていたわけではないので、正確には分からないが、すでに三十分は立っているはずだった。あるいは老齢でもあり、トイレで倒れているということもありえる。見に行った方がよいだろうか。

 暫く逡巡したあと、わたしは意を決して椅子から立ち上がろうとした。が、その瞬間部屋のドアが開いたかと思うと、白いエプロンを着た小間使いのような女が部屋に入ってきて、無言のままテーブルの上に置かれたティーカップなどを片付け始めた。

「博士はどうなされたのですか」と、わたしは訊いた。

「教授はお休みになられました」と、女は不愛想に答えた。

 わたしは耳を疑った。来訪した客をほったらかして一人で寝てしまうことなどあるのだろうか。第一わたしはどうすればいいのだろう。こんな夜中に車など走っているわけはないし、一人で深夜の通りを歩くのは、今の治安状況から考えると、自殺するに等しい。

「あの、今夜はここに泊まる予定なのですが」と、わたしは咄嗟に嘘を吐いた。「客室まで案内してもらえませんか」

「この家に客室などありません」

 わたしは今いる部屋を見渡した。横になれるソファなど置かれていない。この椅子に座ったまま夜が明けるまで過ごさなければならないのか。ニコライ鉄道などを乗り継いでモスクワからペトログラードまで丸一日を移動に費やしてきたせいで、わたしはひどく疲れていた。

「ベッドか、せめて横になれるソファのある部屋はありませんか。どんな部屋でも構わないのですが」

 女は茶道具を片付ける手を止めて、冷ややかな目でわたしを見下ろすと、いかにも仕方ないと言った態度で、

「ご案内します」

 テーブルの上の茶道具はそのままに女はわたしに背を向け、つかつかと部屋を出て行こうとする。わたしは慌てて立ち上がり、親鴨の後を追う子鴨のように彼女の後について部屋を出た。

 消灯の時間なのだろう、女は廊下に出ると、壁に掛けてあった先端に小さな鐘のような形のカバーがついている火消しを手に取り、それで廊下の燭台の火をひとつひとつ消しながら進んで行った。廊下は隙の風が吹き込むせいか、家の中だと言うのに外套が欲しくなるほど冷え冷えとしていた。燭台の火がひとつ消えるごとに辺りは暗くなり、寒さが増すように感じられた。

「こちらでお休みください」

 女は不意に立ち止まると、右手にあるドアを指示した。それから壁に掛けられた燭台の、まだ火の燈っている蝋燭の一本を抜き取り、わたし手渡した。

 このときわたしは女の顔をまじまじと見ることができた。薄暗い廊下の壁際で復活の聖なる徹夜祭のときのように蝋燭を手に持ち、その揺らめく光に下から照らされた女の顔は美しかった。女と言ったが顔つきは少女のように幼かった。それまでの不愛想さも世慣れていない少女のつっけんどんな態度、作り笑いさえできないような純朴さ、朴訥さの表れのようにも思えてきた。

「ありがとう」

 わたしが蝋燭を受け取り、示された部屋のドアを開けると、彼女は無言のままわたしに背を向け、廊下の燭台の火を消しながらゆっくりと去って行った。

 部屋は異常に狭く窓もない有様で、ただ壁際に小さなベッドが据えられているだけの物置小屋のような部屋だった。ベッドの据えられた壁には、色刷りの雑誌から切り取られたような聖母マリアの図版が貼られていた。しかしペチカでも入っているのだろうか、レンガ張りの一方の壁が手を触れられないほど温まっていて、室内は暑いほどだった。

 わたしは床に置かれていた木箱をベッドの横に移動させ、その上に手に持った蝋燭を据え置いた。上着だけ脱ぐと膝を抱えるように狭いベッドの上に横になり、薄手の毛布を体に掛けた。蝋燭の火を吹き消す。窓もない部屋は忽ち真っ暗になった。わたしは泥のような眠りに吸い込まれていった。

 深い眠りから目覚めるときはいつもそうなのだが、わたしは寝る前の記憶を取り戻すまでに時間がかかる。そのときのわたしも一瞬自宅のベッドの上で目覚めたかのような錯覚に陥った。しかしそれにしては周囲が暗すぎる。足を伸ばそうとしたが、すぐに足先が硬い壁にぶつかることに気が付いた。と同時に自分の右手が何かぶよぶよとしたものにぶつかった。わたしは慌てて上体を起こした。驚いたことにパジャマも着ていなかった。いや、下着さえ。

 わたしは気味の悪いベッドから抜け出し、微かにドアの隙間から漏れてくる薄明りを頼りにそこまで行くと、ドアを開けた。朝の光が部屋の中を照らし出し、記憶が蘇った。昨夜上着だけを脱いでベッドに入ったはずだが、いまはなぜか全裸になっている。咄嗟にわたしは自分の服を目で探した。しかし部屋のどこにもわたしの服は置かれていなかった。さらにベッドの上を見ると、やはり裸と思われる女がこちら側に背を見せる格好で薄手の毛布に包まっているのが分かった。

 突然背後から悲鳴が聞こえた。振り返ると、開け放たれたドアの後ろにマリア・マルコワが口元を両手で覆い、驚きのあまり凍り付いたような姿勢で立っているのが見えた。

「違うんです。違うんです」と、わたしは意味もなく繰り返しながら、ベッドに戻りとにかく毛布で体を隠そうとしたが、女がその毛布を渡すまいとするように強く引くので、わたしは尻もちをつくような形でベッドの上に座り、なんとか腰から下を毛布で覆うのがやっとだった。

 夫人の叫び声を聞きつけたのだろう、すぐにマルコフ氏がやって来て、凍り付いている夫人を押しのけると、づかづかと部屋の中に入ってきた。

「小僧、馬脚を現したな」と、氏はわたしを指さしながら言った。

 昨夜見たやつれ切った老人と同じ人とは思えないほど、彼は矍鑠としていて声にも張りがあった。

「昨日から怪しいと思っていたんだ。それで様子を見ていたんだが、やっぱり思った通りだ。この小悪党が。お前の悪企みなどとっくにお見通しなんだからな」

「違うんです、博士。違うんです」

「そりゃあ、違うだろうさ。目を覚ますと、いつのまにかスヴェトザーラが横に寝ていたとでも言うんだろう。嗚呼、かわいそうなスヴェトザーラ、どんなに辛かっただろう。こんな狭くて暗い部屋に監禁されて。でももう心配はいらないよ。昔の帝政時代とは違うのだから。こんな悪党はすぐに公開処刑にされる世の中に変わったのだから。さあ、スヴェトザーラ、こちらにおいで。そうか、この下衆野郎に裸にされたのか。おまえ、スヴェトザーラに服を持って来ておくれ。あの悪党がスヴェトザーラの服を切り裂いてしまったんだ」

 ドアの後ろから夫人のすすり泣く声が聞こえた。

「まあ、なんてひどいことを」

 そこまで来たところでわたしは目を覚ました。きっと昨日のマルコフ氏と夫人のやり取りや小間使いの不愛想な態度などがそんな夢を見せたのかもしれない。わたしはため息をつき、しかし同時に悪夢から解放されたときの聊か開放感のある気持ち、今見たものは夢であり、現実には何も悪いことは起こっていないのだと言う安堵感のようなものに包まれて、ベッドの中で伸びをしようとした。すると、わたしの右手が何か生暖かく、ぶよぶよとしたものにぶつかるのが分かった。


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