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黒い革張りのソファに深紅のドレスを着た老婆が座っている。耳には真珠のイアリング、老木のような首元にはダイアのネックレスを着け、細く節くれだった薬指と小指に金の指輪を嵌めている。綿球のような白髪を綺麗にセットしていたが、はみ出した細い毛先がフレアのように周囲に揺らめき、そこだけ牧歌的な印象を与えていた。
「それは立派な葬儀でしたよ。祭壇の花も見事なものでね、あれはきっと波の形を模したものだったのでしょう、白い花が波がしらのように畝っていて、その下の青い花が海を表わしているのです。それがここから、あの窓際くらいまで続いていました。それは見事なものでした。ただ後で知ったのですが、それが全部造花だったのですよ。わたしは本当に驚いてしまいました。昔なら考えもつかない話です」
口紅を塗った細い唇も皺に侵食され、話をするたびに蠢いたが、それは話をしていると言うよりも何かを咀嚼しているときの口の動きに似ていた。
「もう、ママったら何年前の話ししてるのよ」と、隣に座っている髪を金髪に染めた男が老婆の話を遮った。「百回以上聞いたわよ、その話」
そう言うと彼は長い上着の袖口で隠した手を口元に持っていき、微かに白い息を吐く。どう見ても薬物を吸っているようにしか見えないが、彼曰くそれはベープ式のタバコなのだそうだ。それまでタバコを一日三箱吸っていたが、タバコ代が嵩むので、最近ベープ式のタバコに切り替えた。ニコチンの高濃度溶液は海外から個人輸入で取り寄せ、自分でブレンドして楽しんでいると言う。
「それで、ママに何を聞きたいの」と、彼は不意にわたしの顔を下から覗き込むようにして訊いてきた。
獣のような眼。
疑り深く、同時に狂暴で、じっと獲物を窺うような眼。
わたしは今朝からの出来事を手短に説明し、
「つまり楽譜のシャープとかフラットの記号を発明した人と話がしたいんだよね」
「なにそれ。初めてだわ、こんな人。あなた、なんか憑いてるんじゃないの。最近病気しなかった? ほら、やっぱそうよ。あんた、そんなつまらないことをママに訊くんじゃなくて、お祓いをしてもらいなさいよ」
わたしはそのとき彼の話を聞きながら雑想状態に入っていた。雑想状態とは瞑想状態とは対極にある精神状態で、瞑想状態が明晰にして適度に集中した精神状態だとすると、雑想状態とは散漫にして気だるい精神状態である。明日の朝は何食べようかな、とか、パンにしようかな、ご飯にしようかな、とか、パンにした場合、バターだけにしようか、あるいはジャムもつけようか、ジャムはブルベリージャムと杏子ジャムのどっちにしようか、あれ、ブルベリージャムは先週食べきって、まだ新しいの買ってなかったかな、などと考えながら彼の話を聞くとはなしに聞き、聞いていなかったのかと問われれば聞いていなかった。
「そんなあなたには、このネックレスか、こっちのブレスレットがおすすめね。騙されたと思って二、三日つけてごらんなさいよ。そんなつまらない悩みなんて一発で治るわよ。いいのよ、お金なんて、あとで払ってもらえば」
絵に描いたような霊感商法と言っていいだろう。
深紅のドレスを着た老婆はやや顔を斜め上に向け、あらぬ方角をぼんやりと眺めている。あるいは痴呆が進行しているのかもしれない。
「亡くなった旦那さんとは、いまでも交霊しているんですか」と、わたしは彼女に訊いてみた。
老婆は微動だにしない。
「ママさん」と、わたしは彼女に呼びかけ、彼女の視線がゆっくりとわたしの上で焦点を結ぶのを確認したあと、もう一度同じ質問を繰り返した。
「へっ」と、彼女は奇妙に高い声を喉元から漏らし、わたしの顔を驚いたような表情で見つめた。まるでなぜこのような男が突然目の前に現れたのかと、訝しがるように。あるいは心地よい午睡から目覚めて辺りを見渡すと、見知らぬ部屋に見知らぬ男が立っているのを見た人のように。




