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 教会内に蔓延る細菌どもよ、少しは静かにするがいい。いま離散的及び円環的なマルコフ連鎖に関する数学的説明を終えて、次に記憶の変容についての実験心理学的考察を語らねばならないだから。

 まず前提から説明しよう。

 被験者である彼(仮にAと名付けよう)には美しい妻(仮にBと名付けよう)がいたが、歳若くして死別することとなった。瑞々しい切り花に囲まれ、棺に横たわる彼女の姿は、生前よりも随分と小さくなったように感じられた。

 死ぬ直前の彼女は少し錯乱しているようだった。彼を見ても彼だと分からず、まるで初めて会う人と話すように話した。

「お名前はなんていうのですか」と、彼女は彼に訊いた。

 彼は自分の名を告げたが、彼女はすぐにその名を忘れて、すぐにまた同じ質問を繰り返した。

 月の光が彼女の青ざめた頬を五月のそよ風のように撫でて行った。菊、ユリ、カーネーション、蘭、トルコキキョウなどの花々は、死そのもののように瑞々しかった。腐敗を遅らせるために彼女の腹や胸に載せられたドライアイスは、罪人に自白を強要する拷問道具のように重く彼女の躰を圧迫した。

 火葬場から骨壺を抱えて自宅に戻った夜から、彼の夢の中に一人の少女が頻繁に現れるようになった。

 最初は通りを歩いているときにすれ違う程度だったが、そのうち彼の様子を遠くから眺めるようになった。彼もその少女のことを覚えていて、ああ、以前にも会ったことがあると夢の中で考えた。ある夜彼女が近づいてきて、

「お名前はなんていうのですか」と、彼に訊いた。

 彼は夢の中の少女を妻の生まれ変わりだと信じた。そして周囲の反対にも拘わらず四十九日を過ぎても納骨式を行なわず、自宅に骨壺を置き続けた。

 そんなある日、目を覚まして時計を見ると、十時を回っていた。いつもは鳴るはずの目覚まし時計が鳴らなかったか、あるいは鳴ったのに目が覚めなかったのだろう。彼は慌てて会社に行こうとして駅に向かったが、なぜか会社に向かう電車はなかなか来なくて、反対方向に向かう電車ばかりが立て続けに入ってくる。そのうち夜になってしまったので、彼は仕方なく家に帰って布団に入った。

「どうしたの」と夢の中、少女が心配そうな表情で彼の顔を覗き込んだ。

 彼が今日の出来事を話すと、

「きっと疲れているのよ。だからそんなことが起こるんだわ。今日は会社を休んで、公園でも散歩しましょう」

 すぐに少女が会社に電話している声が聞こえてきた。

「ええ、体調を崩しまして、・・・病院の診断を受けて、またご連絡致します」

 彼の家の近くには大きな公園があって、昔はよく妻と二人で散歩をしたものだったが、最近は通勤の際に横を通り過ぎるだけで、中に入るのは久しぶりだった。平日の午前中だったので、人は疎らで保育園の園児たちが保母さんに連れられて歩いていたり、老夫婦がベンチに腰かけていたりするくらいだった。公園の一角には大きな桜の木が植えてあって、彼の妻はその横のベンチに座るのが好きだった。

「あら、もう座られちゃってるわね」と、少女はそのベンチを差して言った。やはりこの少女は妻の生まれ変わりなのだろうと彼は考えた。

 散歩を終えたあとも穏やかな日常が続いた。妻の看病や葬儀、仕事上のトラブルなどで時間的にも精神的にもぎくしゃくしていた最近の彼は久し振りにゆったりとした温かさに包まれるような気持ちになれた。

 そんな夢から目覚めると、彼は会社の机に座り、仕事をしていた。

「これから得意先を回るから一緒に来なさい」と、上司が言った。

 するともう得意先の応接室にいて、相手が現れるのを待っているところだった。ところが驚いたことに彼は裸足だった。これはまずい。こんなことが相手に分かったら、きっと相手は怒り出すだろう。と考えているうちに彼は眠ってしまった。

「二日も続けてずる休みなんてできないわ」と、夢の中で少女は言った。

 彼はいつも通り出社し、上司には医者に診てもらったが、単なる過労だったと嘘をついた。

 一日休んだせいで、机の上には書類が山積みになっていた。昼休みの間も彼は近くのコンビニで買ってきたサンドイッチを頬張りながら書類に眼を通し、メールを送信し、予定表のスケジュールを調整した。そうやって一日の遅れを取り戻すために深夜まで働かなくてはならなかった。

「ずる休みなんてするもんじゃないな」と、彼は帰宅すると少女に言った。「おかげで今日はくたくただよ」

 それでも彼は少女の顔を眺めると、自然と笑顔になっているのだった。

 やがてそんな夢も終わりをつげ、目覚めると彼は人気のない夜の裏通りを歩いていた。自分の足音だけが妙に大きく響くような気がした。水滴が滴る音が断続的に聞こえてきたり、あるいは時計の秒針が忙しなく時を刻む音が聞こえたりした。

 かれはどうやら誰かに追われているようだった。かれの後ろから追手の足音が聞こえた。かれは足を速めた。しかし追手の足音もそれに合わせて速まるようだった。仕舞に彼はくねくねと曲がった路地を走り始めた。彼は呼吸が荒くなり、足を引き摺りながら喘ぐように走り続けた。

 角を曲がると、突然そこは行き止まりになっていて、彼は立ち止まらなければならなかった。振り向くと、男が立っていた。男は懐から拳銃を取り出すと、それを彼に向けた。まるで映画の一場面のようだ、と彼は考えた。乾いた発砲音とともに彼は前のめりに倒れ込んだ。そして覚めることのない深い眠りについた。

 数年が過ぎた。

 夢の中で彼は課長になっていた。朝少女の作った朝食を食べ、二人で一緒に家を出る。彼は会社に向かうために、そして少女は公立の高校に向かうために。公園の横の道を歩いて駅に入り、満員電車に揺られて会社に着くと、書類と会議と数字に追い回される、そんな日々の連続だった。

 彼が射殺されてから、あの不条理な現実が再び現れることはなかった。しかし見てみるがいい、今日もまたあの腰の曲がった墓守が、草を刈る鎌を片手に死者たちの眠る土くれの上を音もたてずにゆっくりと移動していく。


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