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かれの言葉の次の文節について注意深く考察を続けてみよう。かれは私との関係に於いて自分が上位者であることを認識しつつ、しかしそれを言葉に現わさない。恰もそれが典雅な儀礼ででもあるかのように。
たとえば何かのスポーツに於いて、明らかに実力の劣る相手に対しても敬意を欠かず、また手抜きなどもせずに真剣に対峙してくる、一般に紳士的と言われる選手がいたとしよう。しかしかれは二重の意味で相手を貶めているのだ。実力差は歴然としているのだから、当然試合は大差でかれの勝利に終わる。相手はまずその敗北と言う名の恥辱を味わわねばならない。場内にいる数少ない自分のサポーターたちの上げる罵声。あるいは退屈そうな顔つきでの無言の離席。
敗者は試合前何度も戦略を練り直し、僅かではあるが勝機があると自分に言い聞かせていた。そして夢見ていたのだ。奇跡的な勝利と称賛の嵐。凱旋パレードではクロード・モネの描く祝日のパリのような光景が広がる中、幾千羽もの白い鳩が空を舞い、バルコニーの谷間をゆっくりと行進するかれを乗せた車には、高層階の窓から色とりどりのテープが投げ込まれる。紙吹雪がスノードームの中で煌めくラメのように舞い、かれが片手を振る度に沿道から女たちの悲鳴にも似た歓声が沸き上がる。そして昼間だと言うのに眩しいほどに焚かれフラッシュ。かれは熱に浮かされたように勝利を祝う空砲の乾いた音をその耳に聞き、かれに手渡されるだろう抱えきれないほどの花束の重さをその手に感じていた。
「簡単な試合ではありませんでした」と、かれはインタビューの際に話すはずだった。いや、かれは試合の翌朝に発刊されるスポーツ紙の一面記事まで考えていた。
ところがどうだ。大方の予想通りとはいえ、大差での敗北。かれの背中を照らす西日は憤怒にも似た恥辱をかれの躰に染み込ませる。しかしこの公開処刑にも似た極刑は、これだけでは終わらない。勝者である相手が、項垂れているあなたのもとに駆け寄り、笑顔とともに手を差し伸べてくる。もちろんその行為は、スポーツマンシップに則った推奨されるべき行為ではある。そしてたとえば接戦の末相手が勝ち、自分が負けたのなら、快くその手を握れたかもしれない。しかしまるで子供と大人のような試合の後、互いの健闘称え合えと言うのは、あまりに残酷な仕打ちではなかろうか。
「おまえは二度にわたって俺を愚弄した」とあなたは考える。「一度目は試合で、そして二度目はその偽善的態度で」
あなたの右手は固く握られ、安全装置を外された拳銃のように相手の顔面を求めて戦慄いている。しかし無論そんな暴挙に出れば、あなたの選手生命はお仕舞だ。あなたはあなたの心と同じように固く閉ざされた拳を必死の努力で押し開き、汗で湿った掌を相手に差し出すことになる。
その指先の震え。
まるで死の床にいる者の、光を求めて差し上げた手が空しく空を掴むかのような震え。
あなたの周りには昨日夢見た鳩たちが、地に落ち、のたうち、足を引き攣らせながら、累々とした死骸の料地を作り出している。




