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わたしはため息をつき、
「どうかわたしを手術してください」と叫んでいた。
バトミントンの羽根が足元に転がった。ひび割れた土の中で蠢いていた細菌たちがわたしの醜態を見て、狂喜乱舞しているではないか。忌々しい餓鬼どもだ。
わたしの叫び声は、四月の霞がかった空に微かにはためきながら漂っていたが、忽ち幾千もの紙魚たちに蚕食され、千切れた紙片のように乾いた風に流されていった。
人は簡単に絶望できるものではない。絶望とは希望を失うことではないが故に。
教会の重い扉を引き開ける。最初に眼に飛び込んできたものは、コンビニエンス・ストアだった。よかった。竹の地下茎がモグラのように地中を這い、思わぬところで芽を吹くように、いまや至る所、
かたき地面にコンビニエンス・ストアが生え、
地上にするどくコンビニエンス・ストアが生え、
まっしぐらにコンビニエンス・ストアが生え、
生え、生え、生え、
ているが、こんなところにまで蔓延っていたか。
それにしてもそのコンビニエンス・ストアは流麗な文体で書かれたゴシック・ロマンのような外観を呈していた。明眸皓歯の潤んだ瞳が自動ドアのガラス面に漂泊している。わたしは女が嫌いだ。が、そんな瞳で見つめられると、悪い気はしない。
ドアが開く。
人がいない。
サハラ砂漠に不時着した郵便飛行艇のような孤独。
見渡す限りなにもない砂地に降り立ち、容赦なく降り注ぐ日差しを飛行艇の主翼で遮りながら、まず思い浮かべるのは、水の残量と無線機の不具合であろう。かれの額に浮き立つ汗粒に砂丘の凹凸が反映している。一瞬遠くの空にさかしまなオアシスの蜃気楼が微かに映し出され、すぐに掻き消される。かれはその方角を忘れないように砂地に木片を置く。その方角に十キロほど行けば、きっとオアシスがあるはずだ。かれはもう一度上位蜃気楼が出現する際の光学的原理を頭の中で復唱し、方位磁石を確認する。しかし本当に自分が見たものは蜃気楼だったのか。単なる幻影ではなかったのか。
あるいはこうも言えるだろう。ジョルジョ・デ・キリコの絵に出てくる夕日に染め上げられた人気のない公園に迷い込んでしまったような孤独。
遠くに見える高い塔は失われた時間のようにこちらをぼんやりと、しかし冷酷に見据えている。公園の中央を痩せこけた黒い犬が、首を垂れながらゆっくりと横切っていく。
午後五時。
気だるい空気が地表を覆い、すべてのものは微動だにしない。それにしてもみんなどこに行ってしまったのか。普段は子供たちや家族連れで賑わっている公園に、なぜ人が誰もいないのか。もしかしたら、何か重大な事件が発生し、そう、たとえば戦争が始まって、全員がどこかに避難してしまったとか。あなたは急に不安になる。自分だけがその情報を聞き逃し、ひとりここに取り残されているとしたら。そう考えると、目の前に広がる穏やかな光景さえ、嵐の到来を告げる不吉な静けさのように思えてくる。
夕日に照らされた不定形な不安。
そんなことを考えていると、緑色の制服を着た店員が店の奥から出てきて、何食わぬ顔でレジなぞをいじり始めた。かれの俯いた顔の左半分がキュビズムの絵で描かれたかのようにかれの横顔を表わしている。皮膚は両生類のように湿っているが、眼は硬骨魚類に見られるような球状に近い水晶体を持っている。
つまりそのひとは回春したキリストのような顔をしている。
つまりそのひとは見事な肩幅と女のような細い腕を持っている。
つまりそのひとは炎の髪と黄金の瞳を輝かせる。
つまりそのひとは朝靄の中から現れ、混沌の中に消えていく。
つまりそのひとは呼吸をするようにマントラを唱える。
つまりそのひとは空中に投影された無言の黒点である。
しかしどうしたことか、またも女たちの歌う讃美歌が細い線となって、わたしの足に絡みつき、わたしは足元を掬われそうになりながらレジの前で、
「どうか手術をしてください」とその人に哀願していた。
「なるほど。それはデュピュイトラン拘縮ですね。長年こうした職業についていると、一目でわかります」
そう言って、そのひとは棚からデュピュイトラン拘縮の症例について図入りで詳細な説明が書かれたパンフレツトを取り出し、わたしに手渡した。
「昔は酵素剤が流通していて、注射でも治せたのですが、いまは流通していません」と、そのひとは言った。「手術で治すのが一般的です」
「なぜその酵素剤は現在流通していないのですか」
「製薬会社が経営危機に陥り、販路を戦略的に縮小したためです」
「手術に保険は適用されますか」
「されます」
そのひとの言葉は構築物のような堅固な構造を持っていた。分析してみよう。まず会話の始まりは、親鴨が数羽の子鴨を引き連れて横断歩道を渡るがごとき危うさを伴いながら、しかし周囲の温かい視線を引き付けて離さない。それは危うさそのものが持つ共感への誘いである。生命の危うさ、不確かさが、見るものに両義的な感情を惹起させる。ひ弱な命の営みを守ってやりたいと言う善良な感情と、轢き潰されるところを見てみたいと言う悪魔的欲望の動的均衡がそこにはある。一瞬悪魔的欲望が優勢になる。全員が一思いに轢き殺されるのでは面白くない。親鴨だけが轢き殺され、その周りを所在なさ気にうろつく子鴨の姿を見てみたい。あるいは逆に子鴨が全員轢き殺され、呆然と佇む親鴨の姿を見てみたいと、あなたは考える。
嗚呼、あなたはなんて残酷な人間なのだ。しかしわたしはあなたを責めはしない。なぜならばそうした残酷さを支えているのは、あなたの弱さ、あるいは死に対する恐怖だからだ。そう、残忍さと恐怖は同じ根から伸びた二つの花だ。もしあなたが死と言うものに対する正しい認識を持ち、恐怖に惑わされない強い意志を持っていたならば、そのような残忍さには達し得ないだろう。故にわたしはあなたを憐れむ。否、わたしはあなたを愛する。




