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イヴ・メモワール ―隔離された台湾―  作者: アニキ
第一章:古くて新しい地へ
10/33

混乱の時代

 C.E.2063_04/12_08:01


 今の状況を整理しておきましょう。

 ……整理といってもそんなに複雑なことはない。要するに、ユエが氷人の操縦するロボットと戦った後、わたしたちは即座に意識を失った。それから何が起きたのかはまだ分からないけれど、分かっているのは、わたしたちがまだ生きているということだけ。

 ユエは今、村の病院のベッドに横たわっている。文字通り指一本動かせない状態だけれど、意識があるだけでも奇跡と言えるわね。


 そこは、大きくも小さくもない病室だった。

 真っ白に塗られた壁、緑色のナースカーテン、標準的な医療用ベッド。一見すれば近代的な病院そのものだけれど、現代的な医療設備は一つも無い。装置どころか電灯すらなく、机や椅子はすべて木製。その光景はひどく不気味に映った。


「あら? イーちゃん、やっと起きたんだね」


〈……わたしたち、どれくらい眠っていたの?〉


 時間を確認すると、どうやら七日間眠っていたようだ。


「あたしは5日間。イーちゃんはさらに2日間多く寝てたよ」


 そんなはずはないわ。彼女が目覚めてから数分以内に、わたしも起動するはずなのに。

 可能性としては……ユエの受けた甚大なダメージを修復するために、システムをフル稼働させる必要があった。その際、わたしの人格システムに割くリソースまでもが彼女の脳の運用補助に回され、起動不能になっていた――といったところかしら。もちろん推測に過ぎないけれど。今のイヴ・システムがどこまで強化され、どんな新機能があるのか、わたし自身も把握できていないのだから。


「痛いね……全身バラバラになっちゃいそう。あはは」


 この期に及んで冗談を言えるなんて。神経が図太いのか、それともシステムが痛みを抑制しているのかしら? わたしには感覚が共有されないから、適切なアドバイスも送れない。


〈今の状況はどうなの? 病院にいるなら医者がいるはずでしょう。先生は何て?〉


「全身の筋肉と神経がボロボロだって。特にふくらはぎ、太もも、それから左手がひどいみたい。すでに数箇所の筋肉で融解症状が出てて、全身の運動神経も断裂寸前なんだってさ」


 あんな超音速で走れば、脚が重傷を負うのは当然ね。でも、左手……? あの時、左手でグレネードを掴んだせいかしら。それほどの重傷を負いながらまだ笑えるなんて、もしかして痛覚神経まで焼き切れているんじゃ……。


「でもね、先生が言うには回復速度が異常に早いんだって。今月中には完全に治るだろうってさ」


 一ヶ月で完治!? その怪我で……? あり得ないわ。間違いなくシステムが彼女の自己修復能力を加速させている。常人なら一生モノの後遺症よ。


「そういえば、この『結び目』があれば氷人は攻撃してこないって言わなかったっけ?」


 わたしがユエに付けさせた記号ピースサインは、船を出た時からずっと彼女の頭に結ばれている。


〈『こちらから攻撃を仕掛けない限りは』って言ったはずよ〉


「あたし、あいつに触ってもないよ」


〈あんな言葉の挑発は、攻撃と同義よ!〉


 まったく……超人的な回復力があるとはいえ、一ヶ月も足止めを食らうなんて。不愉快極まりないわ。それなのに当の本人はお気楽な態度で、さらに腹が立つ。

 何より深刻なのは氷人の態度よ。ユエの挑発がなかったとしても、あの操縦者は最初から敵意を剥き出しにしていた。一体なぜ? 外の世界の同胞に出会ったのなら、歓迎されるべきはずなのに。不測の衝突が起きたことで、今後の交渉はさらに難航するでしょうね。どうしたものかしら……。


「シォユェお嬢さん、今日の朝食は何にする?」


 病室の入り口から野太い中年男性の声が響いた。入ってきたのは二人。一人はクイ兄、その後ろには見慣れない中年の女性――服装からしてここの医者でしょうね。それにしても、クイ兄の態度が変わりすぎだわ。不自然なほど顔を綻ばせて、「お嬢さん」なんて尊称まで使って。


「ユエって呼んでください、昨日も言ったでしょう?」


「そうだった。って?」


「キビナゴ!」


「またそれか。いいとも、お望みのものは何でも用意しよう。今日は何人前だい?」


「んー……今日はあんまりお腹空いてないから、三人前でいいや」


 三人前で「あまり空いてない」!? 修復のためにシステムがフル稼働して消耗が激しいとはいえ、一度にそんなに食べられるわけ……。


「ふふ、お嬢さんは今日も食欲旺盛ですね。でも昨日の昼に八人前を平らげた時は、さすがに肝を冷やしましたよ」後ろにいた女医がさらに驚愕の情報を暴露した。


「じゃあ先生、あとは頼みます」クイ兄は医者に一礼して部屋を出て行った。


「今日は少しは痛みが引いたかしら?」医者がユエの傍らに腰を下ろして尋ねる。


「マシにはなったけど、まだ体は動かせないかな。動こうとすると死ぬほど痛いし」


「あんな無茶をしたんだもの、生きてるだけで儲けものよ」


 ……まさか、村中の人間に知れ渡っているのかしら? あの時の戦いを目撃した者がたくさんいて、ユエの驚異的な「戦闘力」を目の当たりにしたからこそ、クイ兄の態度が豹変したのでしょうね。


「生憎、ここには治療に役立つ医療設備なんて何一つ無いわ。あなたのその特殊な体も、下手に弄ることはできないしね。今はアイシングと簡単なマッサージをしてあげることしかできないけれど」


「ありがとう、先生。事情はクイ兄から聞いてるよ。寝る場所があるだけでも十分です」ユエは礼儀正しく感謝を述べた。


「気にしないで、これが仕事だもの」医者は微かに微笑んだが、すぐにその表情を曇らせた。「……それで。意識がはっきりしているなら、説明してもらえるかしら?」


 やはり逃してはくれないわね。この医者はクイ兄の代わりに「尋問」に来たというわけね。


「だから、記憶喪失だって言ってるじゃん。聞いても無駄だよ」


「それを本気で誰かが信じると思っているの?」


 ……この先生、物凄く直球だわ!


「……どうしてそんなに執着するの? 一体何が知りたいのさ」ユエも笑みを消し、真剣な眼差しで問い返した。


「一番重要なのはあなたの素性よ。クイ兄から聞いたでしょう、わたしたちはずっと戦争状態にあるの。正体不明の、それもこれほど強力な人間が突然現れて、村がどれほどパニックになっているか理解しなさい。素性がはっきりしなければ、みんなあなたをスパイだと見なすわ。クイ兄自身はそう思っていなくても、リーダーとして村人の感情や潜在的な危険性を考慮しないわけにはいかないの。早く納得のいく説明をしないと、クイ兄が守りたくても、怒り狂った村人たちを抑えきれなくなるわよ」


「うーん……」ユエは納得したように頷いた。


「ここまで言っても、まだ話す気にならない?」


「先生、本当にごめんなさい。でも、本当に何も思い出せないんだ。信じてもらうしかないよ」ユエは申し訳なさそうにうなだれた。


「……分かったわ。ひとまずは本当だということにしておきましょう。時間はまだあるしね。でも、周囲には納得のいく『説明』が必要だわ。クイ兄がもう限界なのよ」


「でもどうすればいいの? 嘘をつけってこと?」


「ええ、その通り。思い出せないのなら、物語を作ればいい。実際、クイ兄はすでにあなたの代わりに嘘をついているわ。海難事故に遭って、救命艇で幸運にもここへ漂着したが、そのショックで事故以前の記憶を失った――とね」


 クイ兄は本気でユエを守るつもりらしい。信憑性は低いけれど、あり得ない話ではないわね。


「今後、見知らぬ誰かに聞かれたら、クイ兄の話に合わせなさい。それから、あなたは『本島』から流されてきたことにするわ」


「えっ、本島? なんで?」


「本島の人間は氷人の占領地に近い分、あなたのような『超能力』が強い人が多いからよ」


 超能力……? あのロボットのガキも言っていたわね。聞き間違いではなかったということか。


「超能力? 氷人に近いと超能力が使えるようになるってこと?」


「そうよ。占領地付近に住んでいた地球人は、台湾が隔離されてから徐々に色んな変化が起き始めたの」


 なんだと……一体どんな理屈よ?


「超能力かぁ。じゃあ、あたしみたいに瞬間移動できる人がたくさんいるの?」


 次に医者の口から語られた情報は、わたしたちを戦慄させるに十分なものだった。

 現在、隔離空間内にいるすべての地球人には、大小さまざまな「変化」が起きているという。

 筋肉の強度が異常に増したり、視力が常人を超えたり、骨格が硬くなったり。毛髪の成長速度が早まるだけ、なんてケースもあるらしい。クイ兄は筋肉増強の例で、あの体格はその賜物だそうだ。ちなみに、この医者は爪が伸びるのが異常に早いらしい。……それ、強化と言えるのかしら?

 とにかく、この空間内のあらゆる有機生物――植物も含めて、例外なく何らかの変化を遂げている。ただ、その多くは自覚できないほど小さかったり、実用性がなかったり、あるいはただ迷惑なだけの変化だそうだ。

 台湾本島は氷人の占領地に近いため、人体の変化がより顕著に現れる。だから彼らは、ユエが本島出身だという結論を出したのだ。なぜ氷人の区域に近いと強くなるのかは不明だが、ユエのような「瞬間移動に近い動き」ができる人間も、本島には存在するらしい。しかも、彼らは能力を使ってもユエのように「自滅」することはないという。


 人間以外にも変化は現れている。昨年には本島で「三メートルの犬」が現れたという噂や、「歩く木」、鱗に覆われ西洋のドラゴンのような巨体を持つ「ワシ」の目撃談まであるそうだ。

 他にも多種多様な異能者が本島にはいるらしいが、医者自身は澎湖を離れたことがなく、すべて伝聞に過ぎないという。実際の目にしたのは、せいぜい虎ほど大きな猫かな。いやいや、それはもう虎そのものだろう?

 けれど、なぜ? 氷人は何の目的で台湾を占領し、隔離したのか。そしてなぜ隔離区内の生物に変異が起き、環境まで変わってしまったのか。その目的は何?

 自分の目で確かめるしかなさそうね。どのみち、わたしたちの目的地も本島なのだから。


「とにかく、あなたのような人はこの辺境では珍しいのよ。クイ兄なんて、あなたを神棚に上げて拝もうとしていたくらいなんだから」


 妙ね。本島には掃いて捨てるほどいるのでしょう? 初めて聞いたわたしたちならともかく、話を聞き飽きているはずの彼らがそこまで過剰反応するなんて。


「あなたには、クイ兄にとって特別な『意味』があるのよ」


 医者はさらに、この地の具体的な惨状を語り始めた。

 隔離が始まった当時、主要都市はすべて「天火」と呼ばれる兵器によって壊滅、あるいは崩壊の危機に瀕した。僻地は都市部に比べて近代化がそこまで進んでおらず、人口密度も低かったため、被害は比較的軽微だった。また「天火」が極力生物を避けたため、死傷者こそ少なかったが、それが逆に凄まじい難民流出を引き起こした。都市部の人間がこぞって僻地へ押し寄せた結果、都市と農村の人口バランスが逆転してしまったのだ。

 電子機器が一切使えなくなった現代人は、機械の補助を失い、自分たちが何もできないことに気づかされた。都市部はいつビルが倒壊するか分からない危険地帯と化し、結局、小さな村落の方が生活条件が良くなってしまったのだ。


 だが、すぐに問題が噴出した。自給自足の生活に適応できない都市住民は生産活動に従事できず、近代設備の欠如も相まって生産力は壊滅的に不足。需要と供給が破綻し、各地で深刻な飢餓が発生した。

 通信手段を失った政府機関は完全に機能を停止し、台湾全土は瞬く間に無政府状態へと陥った。犯罪が横行し、警察や軍もまともな武器を持たず、自分たちの身を守るのが精一杯。自衛のために武装集団が乱立し、生存圏と資源を巡る縄張り争いが始まった。この混乱は約十年前、集団同士の大規模な衝突――すなわち「戦争」へと発展した。

 ここ澎湖も例外ではなかったが、本島ではさらに事態が深刻化し、「台湾政府の正統な後継者」を自称して独立を宣言する「領地」が乱立した。その後約10年ほどの戦乱が起き、現在では主要な陣営は数えるほどに整理され、小さな集団は強大な「領地」に飲み込まれていったという。

 今の台湾は、まさに群雄割拠の時代。食糧や耕地、漁場を奪い合い、労働力として人間を拉致し奴隷にするのは序の口。今や戦争は単純な生存競争を超え、主義主張のイデオロギー闘争、果ては民族矛盾の次元にまで達している。あらゆる理由を掲げた争いが今も続いており、クイ兄はこの近隣の村々による連合軍の最高指揮官の一人なのだ。

「連合軍」と言えば聞こえはいいが、実際にはごく一部の元軍人を除けば、村人による自衛隊――民兵ですらない集団に過ぎない。


「クイ兄には階級がないわけじゃないわ。隔離される前に退役していただけよ。海兵隊の……何だったかしら、一等曹長マスター・チーフとか言ったわね」


 なるほどね。なぜユエを「崇拝」しようとしているのかは察しがついたわ。


「クイ兄が悩んでいるのは食糧問題だけじゃない。治安、それに最近はもっと厄介な『種族問題』もね」


 種族? みんな同じ地球人でしょうに。

 医者の話によれば、台湾はもともと多様な文化が混ざり合う国であり、外国人の割合も高かった。さらに氷人の移民船が台湾に近い位置に降下したため、氷人と最初に接触したのも台湾だった。

 二十数年前、世界中から研究者や観光客が台湾へ押し寄せ、外国人の比率は爆発的に増加した。当然、その中には多くの氷人も含まれていた。18年前に隔離されるその瞬間まで。

 ……彼女の言う「種族」とはそういう意味ね。


 話を聞いて概ね理解したわ。隔離当時、あまりに多くの外国人が国内にいた。そして台湾人同士の戦争が、間接的に国籍や人種間の対立を引き起こした。……驚くには値しないわね。地球人はいつもそう。自分たちを細かく分類して争うのが、彼らの性分なのだから。わたしたちには到底理解できない論理だけれど。


「観光? 氷人の移民船を観光してたの?」ユエが怪訝そうに尋ねた。


「いいえ、当時はまだ船は台湾に突っ込んできていなかったわ。氷人がもたらした特殊な文化や物品が台湾に集まっていたのよ。グアムやサイパン、沖縄、フィリピン、ハワイなんかもそうね。彼らの船に近かったから、氷人の船を見るための観光航路まであったくらいなんだから」


「移民船の周囲は立ち入り禁止だったはずだけど、入れるの?」


「もちろん入れないし、民間の撮影も禁止。でも、付近の海上を移動することまでは禁止されていなかったわ」


 ちょっと! ユエ、その質問はボロが出るわよ!


〈ユエ! 発言に注意して! あなたは今『記憶喪失』だってことを忘れたの!?〉


「……」ユエは突然黙り込み、表情を強張らせた。失言に気づいたわね。


「……? どうしたの、どこか痛む?」


「あははは、何でもない、何でもないよ」


 医者は気づいていないようね。助かったわ。


「ごめんなさい、喋りすぎたわね。あなたに悪影響が出たら大変だわ。クイ兄の準備がどうなったか見てくるから、朝食を食べたらもう少し眠りなさい。ここ数日の様子を見ていたけれど、あなたは寝ている時の方が回復がずっと早いわ」

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