第二話 酔生夢死
腐ったような鉄の臭い。
いっそ慣れてしまいたいと思うような臭い。
目にしみ、胃がひりついた。
虚呑は目を逸らしたいと思った。探偵が目を逸らしてはいけないものなのに。
廊下は無数の血の足跡で、道を描いていた。
往来する警官の足跡、逃げる足跡。
彼女はそれに視線を向けたが、結局頭を痛めるだけだった。
彼女の歩き慣れていない足が、覇方の支えがあっても滑りそうになった。
足元の不安定さが、彼女のもやがかかった頭を少し冴えさせた。
ときどき、病室の扉の隙間から血が漏れているのが見えた。
酷い箇所は、廊下に向かって、血が叩きつけられたように飛び散っていた。
彼女はその原因を調べようとした。警官にせかされ、ただ引かれるように進んだ。
彼女につながっている点滴のスタンドは、キャスターが血で滑り、まともに使えずにいた。
結局、スタンドは狐族の警官───今はどこか頼もしくみえる彼───がそれを持つことになった。
「気をつけてくださいね。一応、感染症じゃない患者の血とは調べがついてますが、血は汚いので」
警官の忠告のあと、覇方がふっと息をついた。
彼の手の震えが、支えている彼女の腕に伝わった。
たったの手の震えだけでは、彼女は彼を、何も理解できなかった。
「きみのその返り血は……」
彼女が警官をよく見ると、べっとりとついた血が顔や髪にもついていることに気づいた。
命からがら逃げてきたのか。
それにしては、助けを求めにきたとき、取り乱す様子はなかった。
次の被害者を生まないために焦っている。彼女の目には、そう映った。
「返り血ってよくわかりましたね。でも、なんでもいいでしょ。あ、犯人じゃないんで安心してください」
警官は表情を変えることなく答えた。
あっさりとした警官の声が、どこか不気味に思えた。
探偵と助手が連れられたのは、混沌とした医局だった。
看護師や医者、技師。全員ではないが、集められる最大限の人員がそこにいた。
出入りする人数の多さに、誰も3人に気を留めることはなかった。
「犯人は誰ですか。名探偵さん」
その言葉に、覇方が警官を睨みつけた。
現状わかることは少ないはずだ。
「状況を整理させてください。それと聞き込みも。虚呑はまだ本調子じゃない。俺が推理します」
覇方は虚呑を支える手に、少し力を入れた。
そしてすぐ、彼女に痛みを与えないよう、再び手を緩めた。
「いや、おたくなら犯人がわかるはずです。理論なんかどうでもいい。直感で、ね」
警官がふざけているようには見えなかった。
むしろ彼女は、その言葉に根拠がある自信を感じた。
「無理しなくていいんだよ。虚呑は病み上がりだし、それに……」
「犯人は?」
警官は覇方の言葉を遮った。有無を言わせないような、警官の問い。
彼女は息を呑んだ。
彼女はわかってしまった。直感ではない。
断片的な映像が重なって、真っ暗になった。無数の音楽が流されて、騒音になった。
確信をもって、犯人があの者だとわかった。
怖い。
冤罪になったら?
もし間違っていたらどうする?
期待を裏切るのか?
「犯人はおそらく、あの猫族の医者だ」
彼女は、警官にそう耳打ちをし、こっそりと指をさした。
彼女を診た医者。
彼女は心臓がうるさく感じた。
彼女の口元に、なにかが垂れてきた感覚があった。鼻血。
喉が裂けたような痛み。血が口から溢れた。
ぐらりと視界が歪んだ。
覇方の心配する声。
そして、
「いいんです、犯人さえわかれば。それで」
警官の声。
彼女は気を失った。
幸い、彼女を覇方が支えたことで床に倒れることはなかった。
あの病室に戻ることはなく、彼女は転院させられた。
鼻血や吐血、気を失ったのも、病み上がりなのに動きすぎたということで片付けられた。
彼女は転院して1週間もしないうちに、退院してよいことになった。
リハビリは続けることになるが、彼女にとっては早い帰宅だった。
掟期探偵事務所。
彼女の名字を冠した事務所が、虚呑と覇方の帰る場所。
そこが自分の居場所だと、彼女は看板を何度も読み上げてようやく納得させた。
「もっと探偵事務所は大きいのかと。私ときみの2人でここを経営していたのか?」
こじんまりとした、住居と事務所が一体になった建物。
彼女と彼は、客間のソファに横並びで座った。
目の前のテーブルに置かれた乱雑な書類は、こんもりとした山をなしていた。
知らないはずなのに、どこか懐かしい。
「もう、1人。……もう1人だけ、助手がいたんだ」
彼は頭を捻るようにして、どこかつっかえるように話した。
それが、まるで聞いてはいけないことのように、彼の顔が一瞬こわばった。
「キミが事件に巻き込まれて寝たきりになったあと、行方知れずになった」
彼女の目は揺れていた。
そんな姿を見て、彼はやわらかくほほえんだ。
「そいつが巻き込まれたわけじゃない。ただ、意気地無しだっただけだよ」
それを聞いても、彼女の顔が晴れることはなかった。
ぷらぷらと足をふった。
「寝たきりのキミに会ってはいた。だから寂しくなかったよ。まあ、書類仕事は大変だったけどね」
まるで、彼女の心配事を見透かしたような、完璧な言葉。
それでも、「寂しくなかった」という言い回しに、彼女はわずかな孤独を感じた。
彼女は謝ろうとしたが、それでは意味がないことに気づいてしまった。
カランカランと、出入口の鈴が鳴った。
入ってきたのは例の狐族の警官だった。
警官は彼女に、昔の彼女が好きだったという菓子を渡した。
「そういえば名前、言ってませんでしたね。ボクは澱片 横哲。捜査一課の室長です」
彼女は目を見開いた。
あまりにも疲れた顔ではあるものの、彼が自分と同年代のように見えた。
目覚めてから自身の身分証を見たとき、成人はしていたが、まだ子どもと呼ばれるような歳だった。
「意外とボク、若く見えるんですよ。ほら、168歳」
横哲は自身の免許証を見せた。
かなり昔の元号だ。
たしかに一部の狐族は、長命種ほどではないが、長生きだ。
168歳。それで室長となると……。
「虚呑、顔に出てる」
覇方の穏やかな咎めるふり。
横哲はうまく笑えていない苦笑を浮かべた。
「あはは、嵌められてずっと室長してるって信じます?なんて」
そんな冗談なのか本当なのかわからないことを言い、横哲は深い息をついた。
真剣な、警官の表情へと変わった。
「本題に入りましょう。あの病院での事件のこと」
新聞に載るような内容しか、彼女は知らなかった。
犯人が正解だということはわかっていたが、達成感なんてものはなかった。
「私が気を失ったあと、どうなったんだ?」
そのあと、どのように事が進んだのか。
先ほどもらったお菓子の味が感じ取れないほどに、気になることだった。
「まずはおたくが指名した被疑者……、まあ犯人を捉えました。証拠は捉えた段階ではなかったんですが、そいつを遡るだけで十分な証拠を掴めました」
寒気で彼女の手が震えた。
もし冤罪だったら。
それほどまでに、「掟期 虚呑」の言葉は絶対的なのか。
彼女は唾を呑み込もうとしたが、喉がうまく動かなかった。
「事件の概要は、詳細は鑑識とかのほうが詳しいが……見ちゃったからな。あ、おたくら、グロテスクな話は大丈夫ですか?」
彼女は、血塗れの廊下を見て、相当な事件があったことは予想できていた。
いくつかの真相を考えていたが、彼女が思いついたのはどれも現実離れしたものばかりだった。
彼女は覇方に尋ねるように、彼に視線を合わせた。
覇方はただ、頷いた。
彼女もそれに従うように、大丈夫だと肯定した。
「被害者に、遅効性の危険な薬を投与したそうです。監視のないところで」
それで、まさかあんなに廊下が血まみれになるのだろうか。
横哲は少し口を開けたが、次の言葉を出すのを躊躇った。目を伏せて、少し自分の手を絡めて、無意識に自身を安心させていた。
しばらくの沈黙。
彼は深く息を吐き、決心したように続けた。
「あの薬を投与されると、血管が止まって───」
横哲は、吐き気を堪えるように強くまばたきした。
次に続いた言葉は、彼女の想像よりもずっと現実離れしていた。
彼女は口元を抑えた。
人の身体が、薬一つでそんなことになるとは思えなかった。
「あんな状態だったのに、亡くなる直前、笑顔でこっちを見た」
彼女の手には、じっとりとした汗が滲んでいた。隣の覇方も、静かに息を呑んだ。
そんな事件を、騒ぎ立てるのが好きなゴシップ誌が取り上げないのも納得できた。
「……今でも頭にこびり付いている」
ふと、横哲が零してしまった言葉。
彼女の表情を見たのか、彼は慌てて口を塞いだ。
「おたくがいたから、被害者がその程度で済んだんだ」
違う。
もっと早く目覚めていれば。
そもそも寝たきりにならなければ。
彼女は反論しようとしたが、どう話せばいいのかわからなかった。
「おたくは、自分を責めるべきじゃない」
彼女は、横哲のその言葉を飲み込もうとして、不規則な深呼吸をした。
覇方は、そんな彼女を慰める言葉がわからなかった。
ただ、彼女の震える拳を握った。
「犯人の動機はなんだったんですか?」
彼は彼女のために、話題を変えることしかできなかった。
動機は彼女も知りたいと考えていたことだ。
「動機、ですか」
横哲は言葉を選んでいた。というよりも、悩んでいたように見えた。
彼はどの言葉を並べるのがいいのか、探るように話した。
「ほとんどの被害者の元担当医が犯人だったそうで。患者に対する恨み、だそうです。具体的に言ってしまうと、プライバシーのこともあるので」
横哲は、彼女に真っ直ぐな視線を送ることはなかった。
言いたくないことがあるのは、容易に想像できた。
「……」
彼女はなにかを言いかけた。
口を開けようとして、口をきつく閉じた。
聞きたいことが山積みだった。それでも、聞くことが正しいのか、わからなかった。
「おたくには探偵、してほしいと思っています」
突然のその言葉には、どこか圧があった。
探偵になれ。そう命令されている気さえした。
彼女はゆっくりと頷いた。
彼女は、横哲の表情を見る勇気がなかった。
「じゃ、ボクはこれで。……また、会えるのを楽しみにしてます」
そう言って、横哲は手を振って探偵事務所を去った。
彼が出ていくときの鈴の音が、妙に長く響いた。
「俺は、虚呑に探偵をしてほしい。だけど、もし無理をするなら探偵を辞めさせるから」
覇方は彼女の手を握った。
温かい。安心する感覚があった。
でも、また、舌にあの酸味が戻ったような。
覇方は笑っていなかった。
覇方が用意してくれた昼食で満腹になり、眠気がやってくるころ。
また出入口の鈴が鳴った。
長身の狼族の男。
彼は入ってきたと思えば、一歩、そしてまた一歩、彼女へ近づいた。
覇方に助けを求めようと、視線を動かした。覇方が立ち上がった。
間に合わなかった。
「やあやあ、憎くて愛しい我が掟期くん」
狼族の男は、彼女の顎を少し持ち上げた。
どこか懐かしくて、ひんやりとした指先。
「久しぶりだね」
甘くて、砂糖菓子のようで、ねじれた声。
ようやく鼻先に届く、爽やかな気配と、柔らかく熟れた甘さ。
見つめられただけで痛むような、鋭い瞳。
「僕とデートしよう」




