第一話 十年一日
苦しい。痛い。寒い。暗い。怖い。うるさい。なんで。消えたい。助けて。
彼女にとって、生ぬるいコーヒーを無理やり飲みこんだような目覚めだった。
苦いのか、甘いのか。
ただ妙にぬるくて、酸味だけが舌にひっかかるような。
「……起きた」
大きく跳ねた左耳から聞こえてきたのは、どこか耳に馴染む男の声。
まるでずっとそこで待っていたみたいに。
彼女は身体を動かそうとした。
そこで、あまり力が入らないことに気づいた。
指先が、足先が、まるで自分のものではないかのようだった。
身体だけじゃない。なにかがぽっかり空いてしまった。
悲しいはずなのになぜ悲しいのかすらわからなかった。
その「なにか」が、もう戻らないものだとだけわかった。
ツンとするようなあの匂い。薄っぺらい枕。手に刺された、点滴やらなんやらに繋がった針。
ここは病院だ。
彼女が長く眠っていたのだと気づいたのは、気がつけば検査からベッドに戻ってからのこと。
それまでは夢見心地で、現実感が遠かった。
廊下がひどく騒がしかった。
窓の外もサイレンが鳴り響いていた。
病室の扉が開くたびに、怒声や足音ばかりが聞こえてきた。
空気が重くて、息を吸うたびに喉が痛んだ。
病室にノックの音が響き、ドアが開いた。医者と看護師が入ってきた。
どうやら、この風格のある猫族の医者が担当医のようだ。
「はぁ……。あの掟期 虚呑が、よりによってこんなことになるなんて」
医者が早口だからか、それともまだ頭が万全でないのか。
彼女は数秒遅れて、その言葉たちを言葉として認識した。
掟期 虚呑。
彼女はその名前を噛み締めた。
反芻するたび、徐々に自分のものになっていく感覚があった。
「半年寝たきりで、起きたらいわゆる記憶喪失か」
医者はそれだけ言って、あとは首をふるだけだった。
彼女は医者の、記憶喪失という言葉には驚かなかった。
このぽっかりとした穴に、名前がついただけ。
思い出したいのに思い出せないもどかしさは、何も埋まらない。
「有名な探偵があの連続殺人事件に巻き込まれて。こんなの、週刊誌でも書けないよなぁ」
「有名な探偵」、「連続殺人事件」。身体に馴染まないような、反発するような感覚が彼女にあった。
それでいて自分ごとなのかもしれないという、不思議な感覚。
「私はもう、退院できるのか?」
彼女の発声は少し甘い。まだ喉が覚めていない声。
記憶喪失の彼女でも、この声は本調子ではなく寝たきりのせいだと気づいた。
「ちょっとリハビリはしないと。ほら、足とかひっかかる感じするでしょ」
足を、ベッドの上から曲げようとした。
ずっと正座をした後のような、ただの肉塊になってしまった感覚。
彼女の長い「眠り」は、それほどに彼女を侵食していた。
「検査の数値としては、もう大丈夫なんだけどね」
医者が手に持っていた資料に目を落とした。
彼女が覗こうとしても、何が書いてあるのかわからなかった。
看護師は、そのまま彼女の手の針を器用に抜いた。そして、またなにか別の点滴が繋がった針を腕に刺した。
彼女は痛みに顔をしかめた。看護師はそれを見ないふりをしながら作業を進めていた。
「お手洗いとかは勝手に行っていいからね。できれば廊下、いっぱい歩いて。そのほうが早く退院できるから」
彼女は自由に動ける安心からか、息を漏らした。
半年間眠っていたにしては軽症なようだ。
「特級探偵なんだから、早く現場に復帰してくれないとね」
医者の言葉に、彼女は頭を抑えた。目覚めたせいではなく、その言葉を思い出そうとした痛み。
「特級探偵?」
中学生が考えたようなネーミングだと思った。しかし、知らないままにしておくほうが苦しかった。
「……あぁ。特級探偵っていうのは、探偵資格の中でも一番凄い資格なんだ」
少しの沈黙。そんなことも忘れているのか、とでも言いたい医者の顔。
雑な説明に思えた。一番凄い資格、と言われても、彼女はあまりピンとこなかった。
それより、自らつけた二つ名でないことのほうが、よほど安堵した。
「そういえば、今年やっと15人目の合格者が出たって新聞で見たよ。ずいぶん騒いでたなぁ」
その15という数字を聞いても、多いのか少ないのかわからなかった。
ただ「はぁ」とだけ答えた。
扉越しに、鋭い声が廊下に響いた。何者かへの指示よりも、怒号に聞こえた。
その中に、慌ただしい足音も混じっていた。
「二人とも、早く来て!」
ノックもせずに、別の看護師が入ってきた。
医者と看護師は彼女に頭を下げる間もなく、慌ただしく病室を出た。
彼女は院内でなにが起きているのか知りたかったが、この足で歩く勇気はなかった。
騒がしい院内が、喪失感にも浸らせてくれなかった。彼女はただ、手を持て余していた。
しばらくしないうちに、くたびれた妙に若そうな狐族の警官が、ため息混じりに入ってきた。
時間を気にしているのか、腕時計をちらちら眺めていた。
「はぁ。おたくがいなかったから、我々の仕事が倍増しなんです。おたくには山積みの極悪事件が待ってますよ」
警官はわざとらしくもう一度ため息をついてみせた。
愚痴を告げるようでいて、飄々と。
「おたくは幸運でした。被害者27名のうちの、たった1人の生存者。どうか、生きていることを喜んであげてください」
どこか優しくて、悲しそうな視線。
労わるような、不慣れな笑み。
たった1人の生存者という言葉が、彼女へ酷くのしかかった。
もし、探偵として犯人を捕まえられていたら。
彼女はそう思うと、彼の優しさがかえって苦しかった。
「今もこの病院で、あ、やべ。まだ休むべきですよね、おたくは」
余計な気遣いだ。
昔の彼女も、そう言うのだろうか。
真相を知りたいのに、人から止められるのは不快でたまらなかった。
病院の中が一層騒がしくなっていた。
彼女が「何が起きているんだ」と口を開きかけた瞬間。
廊下から慌ただしい足音が近づき、扉に激しいノックが響いた。
数人の警官が焦った様子で彼を呼び出した。ため息をつきながら急ぎ足で、彼は病室を出た。
警察が出る事件ということなのだろうか。邪魔になってはいけない。一層彼女は好奇心をせき止めるはめになった。
彼女は窓を眺めた。
パトカーは今にも二台、三台と増えていった。その車体には「D区警察」とあった。
D区はこの「皇御国」でもっとも事件、探偵、カフェの多い地区。
あくまで彼女の知識のひとつとして、記憶の片隅にあった。
こんなどうでもいい謳い文句を覚えているなら、もっと別のことを覚えていたかった。彼女にはこんな不満しか残らなかった。
コンコンコン、と優しいノックの後。
「お疲れ様。今日は疲れたでしょ」
ぴくり、と彼女の長い耳が動いた。
ひりついたような病院に、穏やかさが戻ったような錯覚。
病室に入ってきた犬族の男は、あの耳に馴染む声の持ち主だった。
彼女が目覚めて「最初に」出会った人物。
「警戒するのも仕方ないよ。記憶喪失なんだから」
一呼吸置いた、穏やかな声。それに反して震えた指先。
「俺は奇離 覇方。キミの助手で、1級探偵なんだ」
夕日が、彼の輪郭だけを金色に縁取った。
影になった彼の爽やかな笑顔が、彼女にとっては苦しく思えた。
「だいぶ忘れてしまったようだ。自分のことも、きみのことも。思い出せるよう、努力しよう」
すこし、言い訳がましいのかもしれない。
でも、彼女にとっては彼への最大限の言葉だった。
彼はその言葉に一瞬、目を伏せた。
ほんの一瞬だけ。また、あの爽やかな笑顔に戻してみせた。
「しかたないよ、あんなことがあったんだから。……無理に思い出さなくていいことだよ」
自身が巻き込まれた連続殺人事件を指すのだろう。
彼女の頭には、なにも思い浮かばなかった。映像、音、匂い、感触。
自身のことだけではない。そこにあったはずの、被害者の痛みや恐怖さえも。
全て、思い出さなければならないはずのことなのに。
「大丈夫、俺はあの特級探偵掟期 虚呑の助手なんだ」
彼は一歩、そして一歩とベッドへと近づいた。
ほのかに香る、石鹸の香り。
優しい声。何も隠していないような、慈しむような声。
彼の温かい手が、彼女の冷えた指先を温めた。
「全部、『新しいこと』としてキミに教えよう」
彼は、彼女の泳ぐ視線にふふっと微笑んだ。
彼の顔に似合わず、どこか無骨でたこのある手。
彼女の、血管の透けた柔らかな手。
それを一掴みするように、自身の体温を馴染ませるように。
彼は彼女の指先を絡めた。
「今度は護るから。だから、逃げないで」
それは束縛ではなかった。呪いでもなかった。
温かさがほしくて、彼女からも手を絡ませた。深く、ぎこちなく。
彼の鼓動が伝わって、目を合わせてはいけない気がした。
知らないはずなのに、こうしていたいと思った。
それなのになぜか、舌にあの酸味が残る感覚があった。
ああ、きっと。
きみは私を恨んでいる。
廊下を走る音。それも、べちゃ、べちゃと、泥が跳ねるような。
彼女の手を握る彼の手がこわばった。
勢いよく病室の扉が開いた。
ひんやりとした空気が入り込み、彼女へじとりとした汗をかかせた。
吐き気がするほど、「あの臭い」が充満した。
なぜ、知っているのか。
彼女の耳には、覇方のごくり、と唾を飲む音が聞こえたような気がした。
入ってきたのは、先ほどのくたびれた狐族の警官。
警官の制服は、返り血に塗れていた。その足元には、血でできた足跡がみえた。
彼女には動揺する時間さえ与えなかった。
「特級探偵の掟期 虚呑。おたくの力を貸してください」
先ほどとは違う、警官の切羽詰まったような表情。
特級探偵という言葉に、少しずつ彼女の輪郭が定まっていった。
「私でいいのか?」
記憶喪失の自分に、期待されるような推理ができるのか。
真実を知りたい好奇心を抱いてしまったことに、彼女は手を強く握った。
「『犯人を知りたいだけ』ですからね。大丈夫、おたくに危害が加わらないことは保証します」
警官は目を合わせ、一歩彼女へ近づいた。
「きっと、おたくの能力は衰えていないと信じてますから」
期待に応えなければならない義務感が、彼女を塗りつぶした。
その義務感が恐怖からくることに、彼女は気づかなかった。
「行こう。私にできることなら」
彼女が立とうとしてみると、貧血からか視界が少し白んだ。
脚がまともに上がらず、身体が鉛よりも重く感じた。
そんなふらつく足元を「助手」に支えてもらい、一歩を踏み出した。
その先が赤黒い血に塗れていたとしても。




