第9話「届くまで」
「これを運びます」
至誠が紙袋を持ち上げた。
袋の口は二度折られている。
封のシール。
伝票。
底に油染みはない。
好代は伝票を見る。
「どこまでですか」
「届け先まで運びます」
「住所、見てもいいですか」
至誠が伝票を向ける。
文字は読めた。
一丁目。
番地。
そこまでは普通だった。
続きに階段の絵がある。
その次は数字ではなく、夕焼けみたいな橙色の帯。
最後に、
《二回鳴らす》
とある。
「これ、住所ですか」
「配送票です」
「行けます?」
「届けます」
好代はもう一度、橙色の帯を見る。
質問への答えではない。
でも至誠は、紙袋を持ったまま入口へ向かった。
好代も追う。
今日は二個。
八話で決めた通り、増やしていない。
一つは、歩いている距離の感覚が縮むもの。
もう一つは、道の端に薄い余白が見えるもの。
どちらも、名前はまだ付けていない。
店の外で、彷徨が待っていた。
「配達ですかねぇ」
「そうです」
至誠が答える。
「私も行くんでしたっけ」
「同行を依頼しました」
「そうでしたっけ」
彷徨は好代を見る。
「そちらは?」
「好代です。手伝います」
「道、分かります?」
「伝票は見ました」
「分かりました?」
「分かりません」
「じゃあ似たようなものですねぇ」
好代は笑いかけて、至誠を見る。
「彷徨さんにも伝票を?」
「経路指示は出しません」
「見ない方がいいですかねぇ」
彷徨自身が言う。
至誠は伝票を畳む。
「今日は見せません」
理由までは言わない。
好代も決めつけない。
彷徨が見れば道が壊れる、とまでは確認していない。
店を出て九分。
駅は背中側になった。
伝票に書かれていた番地なら、好代の知っている地図では反対だ。
「住所、あっちですよね」
「地図上では」
至誠は歩く。
「こっちでいいんですか」
「配送票と現地を照合しています」
好代は足元を見る。
二個目を食べてから、道路の端に細い余白が見える。
白線の外。
塀と電柱の間。
建物と建物の隙間。
本来なら通路ではない場所に、紙一枚ぶんの白さが続いている。
「これ、見えてます?」
至誠は好代が指した先を見る。
「壁です」
彷徨も見る。
「壁ですねぇ」
好代には、その壁の右端だけ白く見える。
「私には、道みたいなのがあります」
「通れますか」
至誠が言う。
「分かりません」
「では、先に身体を入れないでください」
好代は頷く。
長い紙片を白いところへ差し込む。
消えない。
引く。
破れていない。
次に空の紙コップを転がす。
白い隙間へ入った。
音が遠くなる。
数秒後。
坂の下から紙コップが転がってきた。
好代たちの前には、さっきまでなかった細い坂道がある。
彷徨が首を傾げる。
「通れそうですねぇ」
「さっきまでありました?」
「私は見てませんでしたねぇ」
「私は壁だと認識しました」
至誠が言う。
三人の証言は揃わない。
好代はノートへ、
《坂が出た》
と書きかける。
止める。
《紙コップ投入後、坂道を確認》
に直した。
誰が道を作ったのかは書かない。
坂を上る。
町の音が薄くなる。
車。
信号。
店の呼び込み。
一つずつ後ろへ落ちる。
代わりに、紙袋から温かい匂いがする。
至誠は右手で持ったまま、一度も持ち替えない。
「重くないですか」
「運べます」
「ずっと右手ですよね」
「商品状態に問題はありません」
「腕は?」
至誠は答えない。
袖口の下に細い擦り傷がある。
坂を上る前には気づかなかった。
新しい傷かどうか、好代には分からない。
紙袋には傷がない。
「それ、配送でできた傷ですか」
「確認していません」
至誠は歩き続ける。
好代は追及しない。
紙袋を守った代わりに傷を受けた、と結論する証拠もない。
ただ、次の角で至誠が紙袋を壁から遠い側へ持ち替えた。
腕ではなく、商品を壁から離した。
それは好代にも見えた。
自分なら、似たものを食べれば手伝えるかもしれない。
そう思う。
でも今日は二個までにした。
今の二つを捨てる必要があるのか。
そもそも至誠が助けを求めているのか。
好代は聞く。
「持ちますか」
「持ちません」
「私が、です」
「任せません」
即答だった。
「どうしてですか」
「受け渡し地点ではありません」
好代は紙袋から手を離す。
手伝えるかもしれないことと、任されることは別だった。
前を歩いていた彷徨が止まる。
「こっち、だった気がするんですけどねぇ」
左の路地を見ている。
「だった?」
「違った気もしますねぇ」
「どっちですか」
「どっちでしょう」
彷徨は左へ入る。
至誠も続く。
「行くんですか」
「現時点で配送票との矛盾を確認していません」
好代には、かなり矛盾しているように見える。
でも橙色の帯が住所の一部なら、普通の地図だけでは照合できない。
路地の先は行き止まりだった。
壁。
好代は二個目の感覚を見る。
余白はない。
「ここは、何も見えません」
「終わってますねぇ」
彷徨が壁を見上げる。
「戻ります?」
好代が聞く。
至誠は伝票を見る。
階段の絵。
橙色。
《二回鳴らす》
壁の向こうから音がした。
ぴんぽん。
三人とも止まる。
もう一度。
ぴんぽん。
二回。
壁の左端に縦線が入っている。
好代は目を凝らす。
さっきまであったかは分からない。
至誠が線へ近づく。
取っ手がある。
扉だった。
「ありましたねぇ」
彷徨が言う。
好代は壁と扉を見比べる。
「いつからですかね」
「分かりませんねぇ」
至誠は二人の会話へ入らない。
伝票と扉を見比べる。
「二回。照合します」
至誠がチャイムを二回鳴らす。
ぴんぽん。
ぴんぽん。
扉が開いた。
老人が顔を出す。
「遅かったね」
至誠は紙袋を差し出さない。
「配送先を確認します」
老人へ名前を聞く。
伝票の宛名と一致する。
もう一つ、注文内容を確認する。
老人が答える。
そこで初めて、至誠が紙袋を前へ出した。
「お届けします」
老人が両手で受け取る。
紙袋の底を支える。
一度、重さを確かめるように少し持ち上げる。
「ありがとう」
扉が閉じる。
至誠は三秒ほど、その扉を見る。
好代の中で距離の感覚が跳ねた。
PANDEMONIUMまでの距離が、一瞬だけ短くなる。
一本の帰路が身体の中に通る。
「帰れます」
好代が言う。
彷徨が振り返る。
「どっちでしたっけ」
好代の中の一本が、二本になる。
さらに角の向こうへ三本目が伸びる。
「……今、一つだったんですけど」
「増えました?」
「増えました」
「賑やかですねぇ」
「道に使う言葉ですか、それ」
帰りは四十二分かかった。
行きより長い。
途中で、好代の一つ目の感覚が薄くなる。
ぎゅるるる。
距離が普通になる。
二つ目も消える。
白い余白は見えない。
それでも三人は歩く。
一度、同じ自動販売機の前へ戻った。
彷徨が言う。
「見覚えありますねぇ」
好代もある。
至誠は時刻を見る。
「配送は完了しています。帰投は未完了です」
「配送と帰るの、別なんですね」
「別です」
好代は少し笑う。
能力がなくなってから十五分後。
PANDEMONIUMの看板が見えた。
誰が正しい道を選んだのか、最後まで分からなかった。
店へ戻る。
好代は椅子へ座る。
至誠はまず空になった配送記録を置く。
好代は聞く。
「届けば終わりじゃないんですね」
「受取確認までが配送です」
「扉が開いた時じゃなくて?」
「違います」
「名前が合った時?」
「まだです」
「袋を渡した時?」
至誠は少し間を置く。
「受け取られたことを確認したあとです」
好代は老人の手を思い出す。
両手。
袋の底。
少し持ち上げた動き。
《ありがとう》
「私、今日あまり役に立ってないですね」
彷徨が椅子の背へ寄りかかる。
「私もそうかもしれませんねぇ」
好代も言う。
「私も、道を増やしただけかもしれません」
至誠が二人を見る。
「観測記録は残ります」
「役に立ったってことですか」
「記録が残る、という報告です」
好代は笑った。
評価まで代わりに決めない。
好代は自分のノートを開く。
《紙コップ投入後、坂道を確認》
《扉:出現時刻不明》
《受取:両手/底を支える》
最後に、
《届いた》
と書く。
少し考えて、その下へ、
《受け取られた》
と足す。
二つは似ている。
同じではなかった。
能力はもうない。
それでも老人の手は覚えている。
自分で見たからだった。
厨房から甘い匂いが流れてきた。
焦げた匂い。
その奥に、炭酸みたいな刺激。
好代が顔を上げる。
黄色い包み紙の小さなバーガーが、厨房の端に置かれていた。




