第8話「今日は二個まで」
朝、好代は包み紙を二枚だけ取った。
三枚目には触らない。
一枚目。
厨房の人の動きが、床へ薄い線になって見えるもの。
二枚目。
食べる前から、耳の奥が少し冷える匂いがするもの。
「減らすんですか?」
声をかけたのは悲醒だった。
白い包み紙を抱えている。
好代は二枚をカウンターへ置く。
「今日は二個で仕事してみます」
「三個まで使っていたと聞きました」
「三個で働けました」
「はい」
「でも、六個まで行った日は働けなくなったので」
悲醒は三枚目を見ない。
「二個で足りるかを見るんですね」
「はい」
好代は一個目を食べる。
床に線が出る。
厨房から客席。
客席から返却口。
鉄板の前を横切る線だけ濃い。
二個目を食べる。
噛んだ瞬間、店の音が一度だけ遠くなった。
油の爆ぜる音。
椅子の脚。
注文端末。
全部が戻ってくる。
そのあとから、声だけが遅れてついてきた。
「ありがとう」
客が言う。
一秒ほどして、同じ場所から薄く、
《ありがとう》
が剥がれる。
「持ち帰りで」
《持ち帰りで》
「ピクルス抜き」
《ピクルス抜き》
好代は耳を押さえる。
音量は大きくない。
むしろ小さい。
なのに、一度聞いた声が終わらない。
「……これ、悲醒さんのと似てます?」
悲醒はすぐには答えない。
「何が聞こえていますか」
好代が説明する。
「声が少し遅れて残ります」
「それなら、声に関係しているところは似ています」
「同じですか」
「そこまでは分かりません」
好代は頷く。
名札の横に《悲醒》とあるからといって、このバーガーを悲醒の能力だと決める理由にはならない。
注文が鳴った。
好代は客席へ向かう。
二個なら、身体は軽かった。
一個目の線で、空いている通路を選ぶ。
二個目の残り声で、油の音に埋もれた注文を拾う。
「ピクルス抜きで」
聞き返す前に声が薄く残る。
好代は注文票へ書く。
《ピクルス抜き》
厨房へ渡す。
しばらくして商品が出る。
客は包み紙を開き、中を見る。
ピクルスはない。
好代は少し嬉しい。
三個目がなくても、仕事は回った。
ただ、二個目には別の面もあった。
聞かなくていい声まで残る。
隣の席の、
《これ苦手》
入口近くの、
《待たされた》
子どもの小さな、
《まだ帰りたくない》
好代は聞こうとしていない。
それでも残る。
昼過ぎ。
窓際の客が立った。
食べかけのバーガーがトレーに残っている。
悲醒が下げに行く。
好代には、客が席を離れてからも声が聞こえた。
《おいしかった》
小さい。
そのあと。
《でも、もう来ない》
好代の手が止まる。
客はもう入口を出ている。
「悲醒さん」
「はい」
「今の、聞こえました?」
「どの声ですか」
好代は二つを伝える。
悲醒はトレーを持ったまま少し考える。
「私は、客席で言った方は聞きました」
「両方ですか」
「《おいしかった》と、《もう来ない》なら」
「はい」
「聞きました」
同じものを聞いた。
それでも、意味までは分からない。
好代は入口を見る。
ガラス越しに、客の背中がまだ見える。
追えば間に合う。
「なんで来ないんでしょう」
「分かりません」
「聞いたら分かりますか」
「答えてくだされば」
好代は一歩、入口へ向かう。
床の線が最短経路を示す。
六歩。
扉。
外。
まだ追いつける。
二歩目で止まった。
悲醒は止めていない。
好代が振り返る。
「追わない方がいいですか」
「私が決めることではありません」
「じゃあ、何を考えたらいいですか」
悲醒は少し間を置く。
「何を聞きたいのか、ではないでしょうか」
好代は客の背中を見る。
理由。
店が悪かったのか。
味が悪かったのか。
待たせたのか。
直せることなら直したい。
そこまで考えて、もう一つ出る。
自分が嫌だった。
《もう来ない》が。
「……店が悪かったか、聞きたいです」
「はい」
「でも」
好代は入口から一歩戻る。
「大丈夫だって言ってほしいのも、あります」
悲醒は頷く。
「それは、別の質問ですね」
客の背中が角を曲がる。
見えなくなる。
好代は追わなかった。
床にはまだ、入口までの線がある。
使える能力だった。
使わなかった。
午後。
店が混む。
二個は役に立つ。
落ちた番号札へ先回りする。
聞き取れなかった注文を拾う。
通路を空ける。
三個目が欲しい場面もあった。
棚の奥に何があるか、食べれば分かるバーガーがある。
好代は包み紙へ一度触れる。
手を離す。
脚立を持ってくる。
上る。
自分で見る。
時間はかかった。
注文を一件待たせた。
「三個目、使えば早かったです」
悲醒が下から脚立を押さえている。
「そうですね」
「待たせました」
「はい」
「じゃあ、食べた方がよかったですか」
悲醒は上を見ない。
「今日は何を確かめていますか」
好代は棚の箱を一つずつ見る。
二個で足りるか。
「……今日は、このままやります」
「分かりました」
悲醒は脚立を押さえたまま待つ。
夕方。
二個目の感覚が薄くなる。
声が一つずつ消えていく。
《ありがとう》
消える。
《待たされた》
消える。
《まだ帰りたくない》
消える。
《もう来ない》
最後まで残った。
好代はカウンターを拭く手を止める。
「悲しい声の方が残るんですか」
悲醒は首を傾げる。
「そういう時はあります」
「いつも?」
「いつもとは言えません」
「消せます?」
「何をですか」
「今の声」
「私は、消せるとは言っていません」
好代は自分が先回りしていたことに気づく。
悲醒という名前。
声。
悲しそうな残響。
それだけで、悲醒なら処理できる気がしていた。
「すみません」
「大丈夫です」
好代はまた布巾を動かす。
《もう来ない》
まだある。
嫌だった。
「……でも、消えなくていいです」
「そうですか」
「聞いたことまで、なかったことにしたくないです」
悲醒は答えず、隣のテーブルを拭き始める。
数分後。
ぎゅるるる。
腹が鳴る。
《もう来ない》が薄くなる。
好代は耳を澄ませる。
追いかけない。
最後の一音まで残しておこうともしない。
消える。
店には、油の音だけが残った。
閉店前。
好代はスマートフォンを開く。
《今日は二個》
《仕事はできた》
《三個目があれば早かった場面:一回》
《二個目で、聞かなくていい声まで聞いた》
そこで指を止める。
《楽だった》
と書きかけて消す。
身体は六個の日よりずっと楽だった。
でも、楽だった、だけでは足りない。
代わりに書く。
《身体:余裕あり》
《仕事:遅れ一件》
《聞いた声:追わなかった》
悲醒が横から画面を見る。
「明日は三個に戻しますか?」
好代は今日使った二枚の包み紙を見る。
「戻しません」
「怖いからですか」
「それもあります」
好代は三枚目の置かれていた場所を見る。
「でも、二個で足りないところも分かったので」
「足りなかったのに?」
「はい」
好代はスマートフォンへ最後の一行を足す。
《明日も二個》
「足りないところまで分かったなら、明日比べられます」
保存する。
店の奥で配送用の紙袋が置かれた。
伝票の途中に、階段の絵が印刷されている。
好代は目を細めた。




