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第7話「帰れないにおい」

三日、食べなかった。


PANDEMONIUMには三日とも来た。


一日目。


好代はバーガーの棚から一番遠いところで床を拭いた。


油の匂いがすると、腹より先に喉が固くなる。


六個目を飲み込んだ時の重さ。


容器の底へ戻ったもの。


消えていった感覚。


思い出す。


「罰?」


入口を見ていた摩天が聞いた。


「違います」


「怖い?」


「はい」


好代は布巾を絞る。


水が灰色になる。


「でも、それだけじゃないです」


「何を見る」


「食べないで、どれくらい分かるか」


摩天は一度だけ頷いた。


「なら見ろ」


それ以上は言わなかった。


一日目は、床しか見なかった。


二日目。


注文票を運んだ。


包み紙を畳んだ。


客席の椅子を戻した。


能力はない。


床に人の動線は見えない。


棚の奥も分からない。


見えない雨も降らない。


その代わり、厨房の角で渾沌が鼻歌を始めると、数分以内に何か余計なものが増えることに気づいた。


「今日なに増やしました?」


「まだ何も!」


「まだ」


「これからかも!」


好代は予定にないボウルを一つ、作業台の端へ避けた。


十分後、そこへ渾沌が黄色い粉を持ってきた。


「なんで空いてるの!?」


「何か置くと思ったので」


「能力?」


「鼻歌です」


渾沌が自分の口を押さえた。


好代は笑った。


能力がなくても、分かることはある。


当てたのが少し嬉しい。


でも《渾沌が鼻歌を歌うと必ず何か増える》とは書かなかった。


一回見ただけだった。


三日目。


閉店前の油は、昼より少し重い匂いになる。


摩天が入口を見る回数が増えた日は、好代も入口を気にするようになった。


理由は聞かなかった。


摩天が何かを察知しているのか、ただ外を見ているのか、まだ分からない。


好代は自分が貼った札を見る。


《期限前に分けて確認する》


紙の端が油を吸って、少し透けている。


剥がして新しくしようとして、やめた。


読める。


昨日からそこにあったことも分かる。


横の椅子は、脚の一本だけ新しいねじになっている。


誰が直したかは知らない。


でも、昨日はぐらついていた。


今日はぐらつかない。


食べなくても、店は変わる。


食べなくても、残るものがある。


食べなくても、なくなるものもある。


四十七個の匂いは、もうどこにもなかった。


好代は鼻から息を吸う。


油。


洗剤。


紙。


焼けた肉。


普通の店の匂いに近い。


それでも、その下に、最初の日から知っている気がする匂いがある。


消えていない。


夕方。


窓際に、見覚えのない女が座った。


夕日がテーブルの半分を赤くしている。


女は外を見たまま、バーガーへまだ手をつけていない。


好代が水を置く。


「どうぞ」


「ありがとう」


女が好代を見る。


名札には《郷愁》。


「あなた、新しい子?」


「たぶん、そうです」


「たぶん?」


「ここで働いてるのか、まだ自分でもよく分からなくて」


郷愁は少しだけ笑った。


「でも、ずいぶん馴染んでるわね」


好代は自分の手を見る。


布巾。


腰のメモ帳。


エプロンのポケットにペン。


三日前には、吐いた容器を抱えてしゃがんでいた。


「そう見えます?」


「ええ。帰ってきた人みたい」


好代の指が止まる。


「帰ってきた?」


「そう見えただけよ」


「初めて会ったのに?」


「だから、見えただけ」


郷愁は断定しない。


好代は少し迷って、向かいの空いた椅子を見た。


座らない。


仕事中だった。


「帰ってきた感じって、何で分かりますか」


郷愁は窓の外へ目を戻す。


「昔と同じ匂いがすると、そう思うことはあるわね」


「昔いた場所じゃなくても?」


「あるんじゃない?」


「それって、帰る場所なんですか」


郷愁はようやく包み紙を開く。


湯気が夕日に入る。


「懐かしい場所と、帰りたい場所は同じ?」


質問で返された。


好代は厨房を見る。


鉄板。


紙袋。


誰かの笑い声。


最初の日に嗅いだ、雨とも海とも古い本とも言い切れなかった匂い。


懐かしい。


それは変わらない。


家を思い出す。


母。


自分のベッド。


学校の鞄。


冷蔵庫の麦茶。


そちらも知っている。


「……同じじゃないです」


「そう」


郷愁はそれ以上、答えを足さなかった。


好代も聞かなかった。


閉店後。


好代は入口の前で靴紐を結び直した。


帰るだけなのに、なぜか準備が必要な気がした。


「帰んないの?」


奥から渾沌の声。


「帰ります」


「どっちに?」


「家です」


「店じゃなくて?」


「今、店にいます」


「たしかに!」


好代は笑う。


ドアには今日は《引く》と書いてある。


引く。


普通に開いた。


外は冷えていた。


三歩。


五歩。


十歩。


店の匂いが薄くなる。


好代は振り返る。


PANDEMONIUMの明かりが見える。


戻ろうと思えば戻れる。


足は少し止まった。


四十七個を失った場所。


普通のハンバーガーを食べなくても、バーガーのそばにいられた場所。


死ななかったバーガーを食べた場所。


懐かしい匂いのする場所。


全部同じ店だった。


好代はポケットへ手を入れる。


スマートフォンはある。


家の鍵もある。


帰る理由を探す必要はなかった。


歩く。


角を一つ曲がる。


店が見えなくなる。


匂いは、まだ少しする。


二つ目の角。


匂いが消えた。


好代は立ち止まる。


鼻から息を吸う。


何もない。


油も、雨も、海も、古い本もない。


少し怖い。


でも道は分かる。


右。


信号。


細い路地。


自販機。


家。


匂いがなくても帰れた。


玄関を開ける。


「ただいま」


台所から母の声がする。


「おかえり」


好代はそこで初めて、肩の力が抜けた。


その夜。


風呂上がりに髪を乾かしていると、指先から微かに油の匂いがした。


店の匂い。


石鹸で手を洗う。


もう一度嗅ぐ。


まだ少しある。


好代は洗い直さなかった。


匂いが残っていることと、店へ戻ることは同じではない。


翌朝。


玄関で靴を履く。


母が台所から聞く。


「今日も、あの店?」


「うん」


「毎日行ってるね」


「仕事みたいなの、手伝ってる」


「変な店じゃない?」


好代は靴紐を結ぶ。


「変だよ」


「大丈夫なの?」


好代の手が止まる。


大丈夫。


そう言い切るには、四十七個の日が近すぎる。


「分からない」


母が台所から顔を出す。


好代は続ける。


「だから、今日は二個でやってみる」


「二個?」


「こっちの話」


玄関を開ける。


朝の空気。


PANDEMONIUMの匂いはしない。


好代は鼻を使わず歩く。


右。


信号。


細い路地。


自販機。


昨日と逆の順番。


迷わない。


店の角まで来て、初めて油の匂いがした。


それより先に、看板が見えた。


好代は看板を見てから、匂いを吸う。


今日は、匂いに連れてこられたわけではなかった。


入口を開ける。


カウンターの上に、包み紙が三枚置かれていた。


好代は二枚だけ取った。

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