第6話「四十七個」
四十七個あった。
閉店前。
カウンターの端から端まで、包み紙が並んでいる。
赤。
白。
黒。
半透明。
文字のないもの。
紙なのに湿っていないのに、雨の匂いがするもの。
好代は端から指で数えた。
四十五。
四十六。
四十七。
「……四十七」
「四十七!」
渾沌は同じ数を楽しそうに言った。
摩天は包み紙ではなく、好代を見ていた。
「何の列だ」
「期限品!」
渾沌が答える。
「今日までのやつ、集めたらこうなった!」
好代の指が止まる。
「明日は?」
「ないよ!」
「全部?」
「全部!」
摩天が言う。
「処分か」
「そう!」
処分。
その言葉より先に、匂いが来た。
四十七個。
四十七方向。
冷たい金属。
濡れた紙。
砂糖を焦がした煙。
誰かの手袋。
知らない駅。
海ではない塩。
名前をつけられないものが、その間にもっとある。
好代は一番近い包み紙へ顔を寄せた。
「これ、捨てたら中身も分からなくなります?」
渾沌が首を傾げる。
「食べなきゃ分かんないかも!」
「かも」
好代は言い直す。
「分からなくなる、とはまだ決まってないですね」
「うん!」
それでも匂いは四十七個ある。
ここ一週間、好代は三種類までで働いていた。
一つ目で人の動きを拾う。
二つ目で棚の奥を拾う。
三つ目は、その日の仕事に合わせる。
四つ目は食べない。
五話で決めた《明日は三つまで》を、七日間続けた。
今日は八日目だった。
摩天が言う。
「三つ選べ」
「いつも通り?」
「いつも通りだ」
「残りは?」
「残るなら残す。期限で駄目なら処分する」
好代は列を見る。
「少しずつなら、もっと確認できると思います」
「何個」
「四つ目まで。平気なら五つ目」
「前は四つで止まった」
「一週間、三つで動けました」
「四つで動ける証拠にはならない」
好代は黙る。
その通りだった。
三個に慣れた。
そう思っていた。
でも《慣れた》を測ったことはない。
「……三つにします」
摩天は頷く。
渾沌は口を挟まない。
一個目。
二個目。
三個目。
いつもの範囲だった。
床を横切る人の動きが重なる。
棚の奥の箱が分かる。
三つ目は、落ちるものの位置が少し早く分かる。
注文票を運ぶ。
赤ソースを補充する。
客が落とした番号札を床へ着く前に拾う。
身体は動く。
頭も動く。
好代は時計を見る。
閉店まで三十七分。
残り四十四個。
処分箱が店の奥へ置かれる。
蓋が開く。
好代は見ないようにして、注文票を厨房へ持っていく。
戻る。
一つ減っている。
四十三。
「今の、処分しました?」
「したよ」
渾沌が答える。
「期限だから!」
「何のバーガーでした?」
「さあ?」
「匂い、覚えてます?」
「甘かった気がする!」
好代は自分の鼻の中を探す。
四十七個あった時には分かった。
今は、どれが消えたのか分からない。
胸の奥が小さく縮む。
「三つ、終わりました」
摩天が言う。
「今日は終わりだ」
「はい」
好代は答えた。
本当に答えた。
それから五分、仕事をした。
処分箱の蓋がもう一度開く。
二つ目が入る。
匂いが一つ減る。
好代は四個目を手に取った。
隠さなかった。
摩天の正面だった。
「好代」
「一口だけです」
「終わりと言った」
「はい」
「お前も返事した」
「はい」
「置け」
好代は包み紙を持ったまま止まる。
置ける。
腕は動く。
口へ運んでいない。
止まれている。
その時、処分箱の蓋が閉じた。
匂いが消える。
好代の指が包み紙を強くつかんだ。
「……今の、もう戻せません?」
「期限だ」
「食べてたら、何だったか分かったかもしれない」
「かもしれない、だ」
「はい」
「それと、お前が今これを食うことは別だ」
好代は摩天を見る。
別。
分かる。
でも、消えた匂いは戻らない。
好代は四個目を一口食べた。
摩天が残りを取った。
「ここまで」
好代は反射的に取り返さなかった。
身体を確かめる。
腹が重い。
頭の奥も熱い。
でも五話よりは立てる。
「前より平気です」
「そうだな」
好代は一瞬、安心する。
摩天が続ける。
「だから五個目が平気とはならない」
安心が止まる。
渾沌がしゃがんで、好代の顔を下から覗く。
「まだ食べたい?」
好代は残りの列を見る。
「はい」
「どれ?」
聞かれて、指が止まる。
どれ。
四十二個ある。
好代はすぐに選べない。
「……なくなるやつ」
「全部なくなるよ?」
好代は答えない。
渾沌も笑わなかった。
そこから先は、好代が自分で決めた。
五個目。
摩天は許可しなかった。
好代も、許可されたとは思っていない。
一口。
知らない厨房が視界の端へ重なる。
手順が一つ増える。
右から二番目の鉄板へ手を伸ばしそうになる。
実際のPANDEMONIUMには、そこに鉄板はない。
好代は手を止める。
「終わり」
摩天が言う。
「まだ立てます」
「終わりだ」
「あと一つ」
「駄目だ」
処分箱が開く。
好代はそちらを見る。
六個目を取る。
「もう一個なくなります」
「それでもだ」
「食べれば、少なくとも今は分かるかもしれない」
「今だけだ」
「今でも」
「明日には消える」
「今日消えるより長いです」
摩天は一拍置く。
「長ければ残したことになるのか」
好代の手が止まる。
答えは出ない。
出ないまま、六個目を食べた。
甘い。
次に、鉄。
その次が雨。
味の順番ではない。
鼻から入る匂いと、頭へ入る感覚の境目がなくなる。
床の動線。
棚の奥。
落ちる番号札。
知らない厨房。
冷たい金属。
濡れた紙。
誰かの手袋。
全部が同じ距離にある。
好代はカウンターへ手をつく。
手の下の木目が、どの感覚に属しているのか一瞬分からない。
「座れ」
「まだ」
「座れ」
摩天が椅子を入れる。
好代は首を振る。
七個目へ手を伸ばす。
摩天が先に取る。
「返してください」
「返さない」
「摩天さん」
「どれを食うつもりだった」
好代は七個目を見る。
黒い包み紙。
何の匂いだったか。
分からない。
「……これです」
「なぜ」
「なくなるから」
「他の四十個は」
好代は列を見る。
「それも」
「順番は」
答えられない。
「お前はいま、選んでない」
好代の喉が動く。
「選んでます」
「なら、なぜこれだ」
言葉が出ない。
なくなる。
だから。
それだけ。
摩天が包み紙を自分の後ろへ置く。
「全部同じ理由になった時点で、選べてない」
好代は反論しようとする。
腹が鳴る。
ぎゅる。
短い。
早い。
「……まだ」
ぎゅるるるる。
棚の奥が消える。
見えない。
「待って」
床の線が薄くなる。
「待ってください」
好代は七個目ではなく、今消えたものを探すように空中へ手を伸ばす。
渾沌が包み紙の列を好代から遠ざけ始める。
「今日はおしまい!」
「渾沌さん」
「今のは面白くないやつ!」
「まだ四十個」
「だからおしまい!」
腹の奥がひっくり返る。
好代は口を押さえる。
摩天がすぐ肩を支えた。
「奥へ行くぞ」
二歩。
三歩目が出ない。
渾沌が容器を滑らせる。
間に合った。
好代は吐いた。
喉が痛い。
鼻の奥が熱い。
涙で床が歪む。
吐いたものの中に、包み紙はない。
食べたものだけがある。
それを見た瞬間、知らない厨房が消えた。
次に、落ちる位置が分からなくなる。
雨が消える。
順番は、食べた順と同じではない。
吐いたものと対応しているかも、好代には確認できない。
ただ、減っていく。
「……待って」
何に言っているのか分からない。
能力に。
食べたものに。
消えた四十七個の一部に。
自分に。
どれか分からない。
「待ってください」
また一つ消える。
残したくて食べた。
でも、残っていない。
それだけは分かった。
摩天がしゃがむ。
「好代」
「まだ、四十個くらい」
「見るな」
「でも」
「今は自分を見ろ」
好代は目を閉じる。
腹が痛い。
喉が痛い。
頭が重い。
手が震えている。
初めて、そちらを数えた。
翌朝。
四十七個はなかった。
好代は店へ入って、まずカウンターを見る。
何も並んでいない。
胸が沈む。
昨日の能力も、残っていない。
全部が本当に消えたかは分からない。
誰かが記録しているかもしれない。
材料やレシピが残っているものもあるかもしれない。
だから《全部なくなった》とは書かない。
ただ、自分が食べたものを自分の中へ残すことには失敗した。
店の端に、新しい札が貼られている。
《期限品を一か所へ集めない》
好代は読む。
その下に、もう一行。
《確認対象は期限前に分散》
摩天が入口側にいる。
「これ、私のせいですか」
「昨日の結果だ」
「私が食べすぎたから?」
「それもある」
「他は?」
「四十七個を閉店前まで一か所に集めた」
好代は札を見る。
「私だけ直すんじゃないんですね」
「お前だけの失敗にすると、店が同じことをやる」
好代はしばらく黙る。
昨日、自分が決めた。
止められても食べた。
その責任は消えない。
でも、四十七個を一度に目の前へ並べた店のやり方も、そのままにはしない。
好代はメモを開く。
《四個目:前回より立てた》
《五個目:誤動作しかけた》
《六個目:感覚の境界が崩れた》
《七個目:食べていない》
そこで止める。
《六個で駄目》
とまとめかけて、消す。
量も種類も違う。
昨日だけで安全上限は決められない。
代わりに、
《昨日の条件では、六個目で継続不能》
と書く。
その下へ、
《なくなる、だけでは選ぶ理由にならなかった》
と書く。
少し考える。
最後の一行だけ消した。
それは昨日の自分への判決みたいだった。
書き直す。
《四個目以降、選択理由を区別できなかった》
摩天が横から見る。
「今日は食うか」
好代は空のカウンターを見る。
腹の奥がまだ少し痛い。
「今日は食べません」
「明日は」
「明日は、明日決めます」
好代はスマートフォンを閉じる。
その日、注文票を運んだ。
包み紙を畳んだ。
床を拭いた。
バーガーには触らなかった。




