第64話「あなたが決めていい」
壁に、好代の言葉が貼ってあった。
《あなたが決めていい》
昼、その紙の前で母親と小学生くらいの男の子がメニューを見ていた。
「好きなのにしなさい」
男の子は動かない。
「あなたが決めていいんだから。失敗しても自分の責任でしょ」
好代の手が止まった。
聞いたことのある言葉だった。半分だけ。
「辛いの、どれ?」
男の子が聞く。
母親が先に言った。
「自分で選びなさい」
「辛さなら、説明できます」
母親が好代を見る。
「でも本人が決める練習なので」
「はい。最後に決めるのは本人でいいと思います」
好代はメニューを二枚ずらした。
「ただ、この二つはかなり辛いです。こっちは酸味が強くて、こっちは量が多いです」
男の子はしばらく見比べた。
「お姉さんなら?」
壁の紙が目に入る。
好代は一番端を指した。
「私なら、今日はこれにします。初めてなら、辛さが少ない方が味を比べやすいと思うので」
「じゃあそれ」
「私が選んだからじゃなくて?」
男の子は考える。
「辛くない方がいい」
「じゃあ、それで」
母親が少し眉を寄せた。
「それじゃ、自分で決めたことにならなくないですか」
「聞いて決めても、自分で決めたことにはなると思います」
「失敗したら?」
好代はメニューを戻した。
「説明が足りなかったところは、店の責任です」
男の子は一口食べて、「酸っぱい」と言った。
「少し入ってます」
もう一口。
「でも好き」
それで終わった。
大事件にはならなかった。
◇
午後、真意が一枚の印刷物を持ってきた。店のものではない。別の職場の研修資料だった。
《あなたが決めていい》
《本人選択後の結果は本人責任とする》
好代は二行を見た。
「これ、私の言葉ですか」
「上は文面が一致しています」
「下は?」
「後から追加された可能性が高い」
「私が言ってないなら、関係ない?」
真意は紙を指で分ける。
「言ったことと、足されたことは分けて。ただ、拡散の経路はまだ確認する」
好代は壁を見る。
前から店に貼られていた同じ一行。誰かが撮り、誰かが持ち帰り、別の場所で別の行とつながった。
「全部、消して回れます?」
「転載先は把握できていません」
「ですよね」
好代は自分の店の紙を剥がした。
破らない。
裏返す。
白い面へ書く。
《決める前に確認すること》
辛さ。量。アレルギー。値段。持ち帰れるか。途中でやめられるか。店側が分かっていないこと。
最後に一行足した。
《店員の意見を聞いてもいい》
真意が読む。
「表の言葉は消す?」
「壁からは」
「考え方も?」
好代は裏返した紙を指で押さえた。
「それは残します。決めていいって、何も言わないことじゃなかったです」
◇
夕方、別の客が「おすすめどれですか」と聞いた。
「私はこれが好きです。ただ、かなり酸っぱいです」
「じゃあ別のにします」
「はい」
好代は普通に会計した。
閉店後、ドナルゥトゥの前へ行く。水はまた一口減っている。
好代はカードを三枚置いた。
《ここに置く》
《片づける》
《分からない》
「私は、ここに置いておきたいです」
ドナルゥトゥはカードを見る。
選ばない。
好代も急かさなかった。
◇
壁から剥がした紙は捨てなかった。
翌朝、裏面を準備表として使う。
表にはまだ、
《あなたが決めていい》
と残っている。




