第63話「好代ちゃん」
「好代ちゃん」
誰もいない倉庫から呼ばれた。
朝。胸には昨日と同じ名札がある。
《好代》
31とは書かなかった。
「好代ちゃん」
また奥から聞こえる。
「幽玄ちゃん?」
返事はない。
扉を開けても誰もいない。閉めたところで、背後から声がした。
「います」
好代は振り向いた。
幽玄が立っている。
「びっくりした」
「振り向いたから、いるのかもしれません」
好代は息を整えた。
「さっき呼びました?」
幽玄は倉庫の壁へ手を当てる。
「呼んだ声は残っています」
「幽玄ちゃんが?」
「そこは分かりません」
指先の周りに、薄い文字が浮いた。
《好代》
その下に《千姿》。さらに《31》。最後は文字にならない削れた跡だけが残る。
「名前が染みています」
好代の喉が乾いた。
「最後のが、元の名前ですか」
幽玄は削れた跡を見る。
「古いから?」
「たぶん」
「古いものが、あなた?」
答えられなかった。
昨日は冷蔵庫に31と数えられた。千姿から生まれた可能性がある。そして今は好代と呼ばれている。順番に並べれば、いちばん古いものが答えに見える。
でも、削れた跡は読めない。
◇
暗い棚のガラスに人影が映った。
好代に似た身体。顔だけがない。胸には、壁と同じ削れた跡。
好代は一歩止まった。
「これ、幽玄ちゃんが?」
「怖いものが見えやすくなっただけかもしれません」
「消せます?」
「好代ちゃんが怖がらなくなれば、先に消えるかもしれないわ」
好代は逆にガラスへ近づいた。
顔のない影も一歩近づく。
「これが本当の私だったら?」
幽玄は影ではなく、好代を見た。
「今のあなたは消える?」
「……消えないと思います」
「じゃあ、まだ一つにしなくていいんじゃない」
好代は名札を外した。
ガラスの前へかざす。
《好代》
顔のない影の胸に名前だけが重なる。急に人らしく見え、怖さが少し薄れた。
でも、影の顔は戻らない。
好代は名札を自分の胸へ戻した。
「名前って、便利ですね」
「居場所は決まりやすくなるわ。私も、正しく呼ばれると曖昧ではいにくいから」
「じゃあ、名前が本人?」
幽玄は少し首を傾ける。
「私をここに置くものと、私そのものは、同じかしら」
「違うと思います」
「私も、たぶん」
幽玄が目の前で呼ぶ。
「好代ちゃん」
倉庫の空気が少し固くなった。好代の足元で二重に見えていた影が、一つへ重なる。
「今、私になりました?」
「さっきから好代ちゃんよ」
好代は少し笑った。
◇
真意には、壁の写真だけを見せた。
「削れた跡を原初名候補にします?」
「しません」
「千姿は?」
「由来かもしれないです」
「31は?」
「冷蔵庫の分類です」
「好代は?」
好代は胸の名札を見る。
「今、呼ばれてる名前です」
真意が記録したのは五項目ではなく、三つだけだった。
《壁面残留:好代/千姿/31/判読不能痕》
《原初名:未確認》
《現呼称:好代》
◇
閉店後、ドナルゥトゥの席へ行く。水は一口減っている。
好代は少し離れたまま言った。
「好代です」
返事はない。
袖も掴まれない。
名前を言えば、失った関係まで戻るわけではなかった。
帰り際、倉庫からまた声がした。
「好代ちゃん」
今度は振り向かなかった。
誰の声か確かめもしない。
ただ、名札を指で触った。
そこに書いてあるのは、起源ではない。
それでも明日、店で呼ばれたら振り向く名前だった。




