第60話「あなたのじゃない」
朝、好代は娘と公園へ行ったことを覚えていた。
娘はいない。
目を開ける前から、赤い滑り台が見えていた。湿ったベンチ。紙袋。隣で小さな手が包み紙を開く。
「辛い!」
笑い声。
昨日、遠くなったあの声だった。
好代は布団の上で座ったまま動けなかった。
公園までの道も分かる。ベンチの傷も、娘が飲んだオレンジジュースの味まで思い出せる。
思い出すたび、口の奥が少し辛い。
自分は食べていないのに。
洗面所へ行く。顔を洗う。鏡の中にはいつもの自分しかいない。
それでも歯を磨いている途中、舌の奥に辛さが戻った。
「……私の口じゃないのに」
店へ着いて真意へ話す。
「昨日の女の人の記憶が、あります」
「本人の記憶だと確認しました?」
「してないです」
「では、そこは分けて」
好代はノートへ書いた。
《公園の記憶様情報を保持》
《取得経路:未確認》
◇
夢幻は鏡を一枚、テーブルへ置いた。
「夢なら、起きれば消えます?」
「消えない夢もある気がする」
「見分けられます?」
「見てみるねえ。自分で見て」
鏡の中だけ、好代の背後に公園があった。
振り向けば店。鏡へ戻れば赤い滑り台。
女の人と娘がベンチにいる。その反対側には、好代自身が座っていた。
「私、いる」
「いるねえ」
「でも、行ってないです」
「そう思う?」
「はい」
鏡の中で、女の人と好代が同時に紙袋へ手を伸ばした。指が重なる。
辛い。
喉が熱い。
娘が笑う。
好代の胃が縮んだ。
鏡の外でも、唾液が出ていた。
「これ、私の記憶ですか」
夢幻が首を傾げる。
「持ってるのは好代ちゃんだねえ」
「私の?」
「それも同じかなあ」
真意が昨日までの記録を照合する。好代は半液体を食べていない。女客とは昨日までに会っている。袋と受け皿には触れた。経路候補は複数あるが、どれも証明できない。
「消せます?」
好代が聞く。
「編集ならできるかもねえ」
「元に戻せる?」
夢幻は鏡の公園を見る。
「元って、どこかなあ」
好代は答えられなかった。
公園だけを消せばいいように見える。でも女客から直接聞いた話は自分の経験だ。昨日、遠くなる声を聞いたのも自分だ。今朝この記憶に怯えたことも、もう自分の朝だった。
「完全に戻すの、やめます」
「いいの?」
「分からないところを消したら、分かってる方まで切るかもしれないので」
夢幻が鏡を指で弾く。
「じゃあ、傷だけつける?」
「傷?」
「夢かもしれないって、あとで分かる場所」
好代は鏡の中の自分を見る。
「これは、私が行った公園じゃない」
細い亀裂が走った。
《目覚めの傷》。
公園は消えない。娘の笑い声も、辛さも残る。ただ、思い出そうとすると必ず亀裂が先に見える。
好代は自分のノートに《自分》《他人》と二列作った。
しばらく見て、見出しを消す。
代わりに、
《自分で経験したと確認できる》
《経路不明》
と書いた。
公園を後者へ置いた。
◇
昼休み、女の人の連絡先を画面に出した。
聞けば、滑り台の色もジュースも確かめられる。
好代は発信ボタンへ指を置いた。
娘との午後を、自分の記憶の答え合わせに使うことになる。
指を離した。
今は聞かない。
夕方、ドナルゥトゥの前を通る。水は一口減っている。
その瞬間、袖を掴まれた感触が戻った。
店内を変える前。手首の布が引かれる。指の位置まで分かる。
これは自分の記憶だ。
そう思った直後、怖くなった。
好代は自分で同じ場所を掴んだ。
布は引かれる。
でも違う。
指の圧も、引く方向も、あの時とは違った。
「……よかった」
声にしてから、少しだけ泣きそうになった。
違うと分かったことが嬉しい。
同じにできなかったことが寂しい。
閉店後、ノートには二行だけ残した。
《忘れていない》
《私のものかは、分からない》
帰宅して歯を磨く。
朝と同じ場所に、もう辛さはなかった。
それでも公園は覚えている。
好代は鏡を見ずに口をゆすいだ。




