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第59話「同じものは返せない」


返品棚の《八一七》の下が濡れていた。


水ではない。指先につけると、油っぽい。


好代は匂いを嗅いだ。


「……悲鳴蒸留所です」


前に来た時より、悲鳴蒸留所は静かだった。鉄の床も配管も同じなのに、悲鳴がない。


代わりに、ぽた、ぽた、と液体が落ちている。


中央の受け皿には紙袋が一つ。


《八一七》


昨日、二人が持ち帰った袋と同じ折れ、同じ傷、同じ油染み。中は空なのに、底だけが濡れている。


赤茶と薄い金色。


二色は触れ合っているのに、完全には混ざらない。


懺悔がしゃがんで匂いを嗅いだ。


「二人ぶんの味がする」


「二人?」


「返したい味と、返したくない味」


赤茶の方へ鼻を近づける。


「間違えたかもしれない、って味」


金色へ移る。


「こっちは、食べた時の味がする」


女客は娘と公園で食べた。辛かった。男客は同僚に一口取られた。甘かった。


好代は袋へ触れずに聞く。


「後悔だけ食べられます?」


懺悔は長く匂いを嗅いだ。


「食べられると思う」


「それだけ?」


「……それが分からない」


◇


袋の持ち手に《返却》と浮いた。


底の液体が二本の細い溝へ分かれる。一人ずつ返せる形に見えた。


昨日は返す先を一つにできなかった。今度は二本ある。


好代は少しだけ安心した。


その間に、赤茶の一滴が溝へ滑った。


止めるより早く、配管の奥へ落ちる。


遠くで子どもの笑い声がした。


「辛い!」


公園の声。


笑っている。


その声が、途中から遠くなる。


好代は顔を上げた。


「止めて」


懺悔が袋を水平に戻す。液体は止まった。能力を失敗させたのではない。ただ、流れを止めた。


「今、何が減りました?」


懺悔がもう一度嗅ぐ。


「後悔は軽くなった」


「他は?」


「娘と食べた味も、ちょっと薄い」


好代は金色を見る。さっきと同じ量に見えるのに、匂いが少し弱い。


「くっついてるんですか」


「たぶん。泣きたい味と、残したい味が」


「懺悔ちゃんが食べたら?」


「もっと軽くできると思う」


「後悔だけ?」


懺悔は首を振った。


「ちゃんと食べられる。だから、だめかも」


好代は、前にここで起きたことを思い出した。


取り除けることと、取り除いた後まで救えることは同じではなかった。


今度は、返せる。


返せるからこそ、返した後に何が残るか分からない。


「止めます」


懺悔は少しだけ残念そうに袋から離れた。


「おいしそうなんだけど」


「それは知ってます」


好代は笑った。


◇


袋の底には二色が半分残った。


赤茶は少し減り、境目だけが滲んでいる。完全な二色には戻らない。


店へ持ち帰り、昨日まで空だった《八一七》の場所へ置く。


《返品済み》にはしない。


カードには三行だけ書いた。


《履歴二件》

《一部返却で関連記憶の感触低下》

《返却停止》


夜、ドナルゥトゥの水はまた一口減っていた。


袖は掴まれない。


好代は一瞬だけ考えた。


もし、あの接触を返してもらえる場所があったら。


考えただけで、何もしなかった。


棚へ戻ると、袋から一滴落ちていた。


布を取る。


手が止まる。


拭けば、床は元通りになる。


好代は布を戻し、受け皿を置いた。


ぽたり。


好代の指先に、油の匂いと一瞬だけ辛い匂いが残った。原因とは書かなかった。


赤茶とも金色とも言えない一滴が溜まる。


戻さない。


捨てない。


食べない。


半分のまま、置いておく。

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