第54話「ドナルゥトゥ」
開店前の客席に、誰かが座っていた。
好代は鍵を差したまま、ガラス越しにそれを見た。
店内の照明は消えている。
昨夜、自分が施錠した。
裏口も閉まっている。
それでも、窓際の席にいる。
「……お客さん?」
鍵を開けて三歩だけ入る。
返事はない。
人に見える。
でも、身体の各部分が別の瞬間で止まっていた。
頭は深く下がりかけている。
両手は何かを差し出す直前。
口は何かへ噛みつく直前。
椅子に座っているのに、右足だけが床を蹴って立ち上がる直前。
一人の身体に、四つの「まだ」がある。
好代はそれ以上近づかなかった。
匂いだけが届く。
油。紙。鉄板の熱が冷めた後。濡れた床。人の出入り。
「店の匂い……」
真意が到着して、入口から同じものを見る。
「この店?」
「そこまでは分かりません。店です」
触らずに照明をつける。
存在の前には空の皿が一枚あった。
それが皿を好代へ押す。
引く。
また押す。
引く。
「欲しいんですか」
動きが止まった。
好代を指す。
皿を指す。
自分の口を指す。
「私を……」
「解釈は後」
真意の声で、好代は口を閉じる。
厨房から試食用のパンを一切れ持ってきた。皿へ置く。
存在はパンを好代へ差し出した。
好代が受け取る。
次の瞬間、好代の手首を掴み、自分の口元へ近づけた。
皮膚に冷たい指が触れる。
好代は反射的に腕を引いた。
存在の手も止まった。
追ってこない。
好代は一歩下がる。
手首に赤い跡はない。それでも、掴まれた場所だけが冷たい。
「今の、与えたかったのか、食べたかったのか……」
「記録だけなら、両方あります」
存在が立った。
空の皿を持って入口へ三歩進む。戻る。好代へ渡す。また入口へ行く。今度は皿を胸へ抱えて戻る。
呼ぶ。
運ぶ。
食べさせる。
昨日、別々に聞いた三つが、好代の頭の中で勝手に並ぶ。
並べた瞬間、嫌な感じがした。
昨日、自分で重ねなかったばかりだった。
「今は、名前だけ確認します」
◇
古い記録には完全な名がなかった。
《……ナル……トゥ》
《ド……ゥ……》
擦れた札に、
《ドナルゥトゥ》
「これが一番残っています」
真意が言う。
「本人の名前?」
「未確認」
好代は少し離れた場所から呼ぶ。
「ドナルゥトゥ?」
顔が上がった。
それだけ。
「反応しました」
「はい」
「名前でいいですか」
「呼称への反応と、最初の名前だったことは分けて」
好代は頷いた。
昼前になっても店は開けられなかった。
ドナルゥトゥは同じ四つの途中を繰り返す。
案内するように頭を下げる。
皿を差し出す。
自分へ引く。
入口へ運ぶ。
また好代へ戻す。
一度、好代は皿を受け取らなかった。
ドナルゥトゥの腕が空中で止まる。
五秒。
十秒。
やがて皿をテーブルへ置いた。
それ以上は押しつけてこない。
「もう一回、同じ条件で確認します?」
真意が聞く。
好代は首を振った。
「今のでやめます」
「一回だけですが」
「拒否できるか確かめるために、何回も拒否させたくないです」
真意は何も足さずに記録した。
好代は皿を二枚持ってきた。
自分の前に一枚。ドナルゥトゥの前に一枚。
「どっちを使いたいです?」
ドナルゥトゥは好代の皿へ手を伸ばし、途中で止めた。
自分の皿へ伸ばし、また止めた。
両手を膝へ戻す。
好代はしばらく待った。
「……今は、選ばなくていいです」
皿を片づけない。
店はそのまま臨時休業になった。
◇
夜、真意が残した記録は六行あった。
好代は読み返して、三行に減らせないか聞いた。
「減らす理由は?」
「同じことを説明してる気がして」
「同じかどうかが、まだ分からない」
好代はペンを置いた。
六行のまま残す。
《呼称「ドナルゥトゥ」に反応》
《原初名:未確認》
《与える/受け取る/運ぶ/摂取する動作が同一個体に併存》
《各動作の起源順序・本来役割:未確認》
《拒否後、強制継続なし》
《二択提示時、選択成立せず》
「選べないのも、答えですか?」
真意が聞き返す。
「答えとして扱います?」
好代は二枚の皿を見る。
「今日は、扱います」
帰る前、空の皿を一枚だけ残した。
食べ物は置かない。
代わりに水を置く。
「いらなかったら、飲まなくていいです」
ドナルゥトゥは水を見た。
手を伸ばさない。
好代は照明を落とした。
暗くなる直前、四つの途中だけがもう一度見えた。
頭。
両手。
口。
右足。
どれも最後まで終わらなかった。
好代は外から鍵を掛けた。
今度は、中にいることを知っていた。




