第48話「知らない雨」
雨が、下から降っていた。
道路から水滴が浮き、靴、膝、肩を抜け、灰色の空へ吸い込まれていく。
濡れない。
冷たいだけだった。
好代は傘を閉じた。
閉じ方を知っていた。
この雨には傘が要らない。
そのことを、来る前から知っていた気がした。
「……知らない雨」
真意の声が遠くで呼ぶ。
次の瞬間、好代は厨房に立っていた。
右手には、ひと口だけ欠けた黒いバーガー。
「何秒でした?」
「六秒です」
閉店後の作業台。
注文票のない皿。
黒いバンズ。白い葉。青いソース。
十七時四十二分までは何もなく、次のカメラフレームでは置かれていた。
作った人物は映っていない。
好代は食べる前に匂いを嗅いでいた。
雨上がりのアスファルト。
鉄。
焼いた肉。
知らない駅のホーム。
PANDEMONIUM由来の異常臭はある。それだけで安全とは決められない。
だから一口だけ。店内。真意が記録。異常が出れば吐く。
そして好代は、食べる前に一つ頼んでいた。
「私が言ったこと、そのまま事実にしないでください」
今、その約束が必要になった。
「駅がありました」
真意が記録する。
「見た?」
「いた、の方が近いです」
好代は口の中の塩味を確かめる。
「改札を出たら、左に薬局があります」
「見た?」
好代は答えかけて止まった。
六秒の中で、改札の外へは出ていない。
「……見てないです」
それでも知っている。
駅前のパン屋は火曜日が休み。
ホームの黄色い花は摘んではいけない。
線路を歩く時は白い線を踏まない。
階段の三段目だけが欠けている。
好代はバーガーを皿へ戻した。
二口目は食べない。
「記憶みたいです」
「誰の?」
「出てこないです」
「実在する場所?」
「確認できてないです」
真意は、答えがない欄を埋めなかった。
◇
翌朝、雨の匂いで目が覚めた。
東京は晴れている。
それでも好代は、あの駅へ帰れる気がした。
通勤途中、いつもの駅の階段で三段目を見る。
欠けていない。
靴底が一段ぶん迷ってから乗る。
安心した。
少しだけ、残念だった。
店では真意が地図と記録を広げていた。
似た駅は見つからない。
薬局は条件が広すぎる。
黄色い花も同定できない。
好代は目を閉じれば、昨日より簡単にホームへ戻れた。
黄色い花の位置まで言える。
パン屋の休業日も変わらない。
忘れていない。
むしろ、馴染んでいる。
「残ってるから、本物なんでしょうか」
「残っていることは確認できます」
「本物かは?」
「そこは分けてください」
好代は自分の腕を擦った。
逆さの雨が通り抜けた冷たさまで思い出せる。
身体の記憶になっている。
でも昨日、厨房から動いた記録はない。
六秒より前にその駅へ行った証拠もない。
「消せます?」
「方法を探しますか?」
好代はすぐには答えなかった。
窓の外で、最初の雨粒が落ちた。
上から下へ。
客が傘を差して入ってくる。
好代は窓際へ行った。
ガラスを水が流れる。
指先でその筋を追う。
冷たい。
逆さの雨も、同じくらい冷たかった。
どちらも自分の中では鮮明だった。
片方だけが、今、目の前の窓を濡らしている。
「残します」
真意が記録を止める。
「真実だから?」
「違います」
好代は濡れた窓を見る。
「忘れてないからです」
「扱いは?」
好代は少し考える。
「知らないものとして持っておきます」
閉店後、記録は四行になった。
《未知バーガー摂取:記憶様情報を固定》
《情報源:未確認》
《実在世界線:未確認》
《本人経験との同一性:未確認》
好代はその下へ一行だけ書いた。
《忘れていない》
窓の外では普通の雨が降っている。
翌朝、朝礼で誰かが金色の紙王冠を持ち上げた。
「去年も、やりましたよね」
好代の中に、知らないはずの脚立の感触が戻った。




