第46話 名前をつけない時間
その日は、何も起きなかった。
正確には、何も起きないことを、好代が選んだ。
朝、目が覚めたときから腹は減っていた。
空腹はもう、昔のような敵ではない。怖くないわけではない。ただ、怖さの形が分かるようになった。
残りが減る。
食べる。
また減る。
その繰り返しの中で、自分がどこまで持つのかを、身体で覚えてきた。
だから今日は、急がなかった。
店に着いて、いつもの席に座る。
「おはようございます」
「おはよう」
店員が水を置く。
「今日はどうします?」
好代はメニューを開いた。
しばらく眺める。
食べられるものは分かっている。
必要な量も、大体分かる。
それでも、すぐには決めなかった。
「……あとで」
「はい」
店員はそれ以上聞かなかった。
好代は窓の外を見た。
人が歩いている。
犬を連れた人。
自転車。
子ども。
買い物袋を持った老人。
みんな、どこかへ行く。
好代も以前は、どこかへ行かなければならないと思っていた。
治る場所。
食べられる場所。
死なない場所。
そういう場所を探していた。
けれど今は、ここにいる。
それだけだった。
腹が鳴った。
ぐう、と小さく。
好代は腹を押さえた。
「まだ」
誰に言うでもなく呟いた。
少しして、店員が通りかかった。
「注文、決まりました?」
「まだ」
「じゃあ、またあとで」
それだけ。
好代は少し笑った。
急かされない。
心配もされない。
特別扱いもされない。
それが妙に心地よかった。
昼前になって、好代はようやく注文した。
「二つ」
「はい」
「……まず二つ」
「分かりました」
運ばれてきたバーガーを、ゆっくり食べる。
一口。
噛む。
飲み込む。
身体の奥へ落ちていく。
何かが満たされる感覚。
以前なら、それを確認することに必死だった。
効いているか。
足りるか。
間に合うか。
今日は、そこまで考えなかった。
おいしい。
それだけで食べた。
二つ目も食べ終わる。
包み紙を畳んだ。
店員が来る。
「追加します?」
好代は少し考えた。
「あと一つ」
「はい」
三つ目が来るまでの間、好代は水を飲んだ。
窓の外では、さっきの犬が戻ってきた。
同じ道を、反対方向へ歩いている。
好代はそれを目で追った。
三つ目を食べる。
腹の底が静かになる。
それで終わりにした。
「今日は三つですね」
「うん」
「少ない?」
店員が聞いた。
好代は首を傾げた。
「どうだろ」
少し考える。
「今日は、これでいい」
「分かりました」
皿が下げられる。
好代は席を立たなかった。
食べ終わったのに、そのまま座っていた。
水を飲む。
外を見る。
何もしない。
その時間に、名前をつけようとした。
休憩。
待機。
観察。
調整。
どれもしっくりこなかった。
だから、やめた。
名前をつけない。
何かのための時間にしない。
ただ座っている。
しばらくして、好代は立ち上がった。
「帰る?」
「うん」
「また明日?」
好代は少しだけ考えた。
「たぶん」
「はい」
店を出る。
外の空気は少し冷たかった。
好代は歩き出す。
目的地はある。
家に帰る。
それだけ。
途中で腹が鳴るかもしれない。
鳴らないかもしれない。
明日、何個食べるかも分からない。
でも、それでよかった。
決めていないことが、怖くない。
好代は歩いた。
何も起きなかった一日が、静かに終わっていった。




