第44話「半分じゃなかった」
女性は、採用された。
三日前、好代が「私なら面接へ行く方に一票です」と言った客だった。
給料は上がる。
勤務時間は短くなる。
仕事内容も面白そうだった。
「まだ返事してないですけど、たぶん行きます」
女性は笑っている。
「背中押してもらったから」
好代も笑いかけた。
「よかったですね」
言った直後、女性の隣にいる男性が鞄から紙を出した。
「僕には、よくないです」
契約終了通知だった。
女性が抜ける。
引き継げる人がいない。
納期に間に合わない。
小さな取引先が、一件切れた。
男性の仕事は、その案件に半分乗っていた。
「あなたが転職を勧めたんですか」
好代の笑顔が消える。
「勧めたというか、私なら面接に行くって」
「それで彼女は行った」
女性が紙を見る。
「会社の引き継ぎの問題でしょ」
「そうだよ」
男性はすぐ答えた。
「全部お前のせいとは言ってない」
「じゃあ何?」
「何もなかったみたいに『よかったね』って終わるのが嫌なんだよ」
好代は、さっき自分が言った言葉を思い出した。
よかったですね。
三秒前まで、それで話が終わっていた。
理性が奥から出てくる。
「店内で続けるなら、せめて紙を濡らすな。飲み物の横じゃ」
男性が通知を引く。
好代が聞いた。
「理性ちゃん。これ、どれくらいの損なんですか」
「何を同じ物差しへ乗せたい?」
「転職して増える分と、失った分です」
「別人の財布じゃぞ」
理性は紙を一枚取った。
女性の給与差。
短くなる通勤時間。
男性側の契約額。
担当比率。
引き継ぎに必要だった工数。
並べる。
足さない。
「差し引いたら?」
「何が残ると思う?」
好代は答えられない。
「女の一時間と、男の一万円を同じ欄へ入れる理屈が先に要る。帳尻だけ欲しがるでない」
女性が小さく聞く。
「じゃあ、転職しない方がよかった?」
理性は紙から顔を上げる。
「それをこの紙に決めさせるのは早いぞ」
好代は男性を見る。
「すみません」
「何が?」
「あなたのことを何も知らないまま、『よかったですね』で終わらせたことです」
「転職を勧めたことは?」
好代は女性を見る。
三日前、迷っていた顔を思い出す。
「それは、謝りません」
男性の眉が動く。
「私が知ってた範囲なら、今でも面接へ行く方に一票です」
好代は通知へ視線を落とした。
「でも、知らなかった損が出たなら、それも残します」
◇
女性は転職先へ相談した。
引き継ぎ期間を二週間延ばしたい。
認められたのは一週間だった。
一週間で、二件の引き継ぎが終わった。
切れた契約は戻らない。
男性の担当も、元には戻らない。
一週間後、女性が一人で店へ来た。
「全部は無理でした」
「はい」
「二件は渡せました」
「はい」
「これで半分くらいは戻せたかな」
好代は返事を急がなかった。
二件残った。
一件失った。
数なら三分の二。
契約額なら違う。
働く人の時間なら、また違う。
男性が失った仕事の感触は、好代には測れない。
「……半分じゃなかったですね」
女性が先に言った。
「たぶん、分け方が違います」
好代は答えた。
閉店後、理性が計算紙をまとめる。
好代は一枚だけ抜いた。
数字のない紙。
《増えたもの》
《減ったもの》
「残すのか?」
「今日の分だけ」
「明日には違うぞ」
「はい」
好代は二つの欄を埋めなかった。
代わりに紙を裏返す。
翌日の予約数。
十七。
その下に小さく書く。
《来なかった人は、ここには出ない》
翌日は雨だった。
閉店時、予約数ではなく売上表がレジに残った。
先週、四十二。
今日、百二十六。
きれいに三倍だった。




