第42話「昨日の真似」
翌朝、好代の椅子が三脚になっていた。
レジ内。
厨房入口。
客席へ出る扉の脇。
「……私、一人ですよ」
世達が端末から顔を上げる。
「昨日の対応を反映しました」
「三か所で休む予定はないです」
「必要地点を網羅しました」
好代はレジ内の一脚だけ残し、二脚を壁へ寄せた。
昼前、新人が注文を取る。
客がセットを迷った。
「ええと、飲み物は……」
新人が急に言う。
「ちょっとだけ待ってください」
自分が椅子へ座った。
客が止まる。
好代も止まる。
「……私が待つんですか?」
新人は飛び上がった。
「すみません!」
休憩室で好代は笑いをこらえきれなかった。
「昨日の真似だよ☆」
憧憬が椅子へ座る。
胸の前で手を止める。
一度深く息を吸う。
「『ちょっとだけ待ってください』」
好代自身より少し綺麗だった。
「そこまで真似しなくていいです」
「じゃ、どこまで?」
好代は答えられない。
昨日の自分は、座ることを勧めたわけではない。
でも、見ていた人に残ったのは、椅子と台詞と深呼吸だった。
◇
午後、厨房の壁に紙が貼られた。
《無理をしない》
《困ったら止まる》
《自分で決める》
「私、これ言いました?」
世達が確認する。
「逐語ではありません。昨日の対応を要約しています」
好代は三行を見る。
昨日、自分がしたことは三十秒座っただけだった。
首の傷が引きつり、声が出にくくなり、客へ待ってもらった。
傷も、息苦しさも、客も消えている。
三行だけが綺麗に残っていた。
夕方、仕込み担当が冷蔵庫の前で手を止めた。
「追加分、やらないことにしました」
「体調悪いです?」
「いえ」
「時間が足りない?」
「あります」
「じゃあ、どうして?」
担当が壁を指す。
《無理をしない》
《困ったら止まる》
《自分で決める》
「自分で決めていいんですよね?」
予約分の仕込みだった。
やめれば足りなくなる。
好代は紙を剥がしかけて、やめた。
「止まっていいです」
担当がほっとする。
「でも、予約分が足りなくなることは先に伝えてください」
「じゃあ、やらなくていい?」
「そこはまだ決めてません」
好代は予約表を置く。
「体調が悪いなら代わります。やり方が分からないなら一緒に確認します。時間がないなら優先順位を変えます」
「どれでもないです」
「じゃあ?」
担当は少し黙った。
「……面倒です」
好代は吹き出した。
「それなら、最初からそう言ってください」
結局、二人で仕込んだ。
好代が全部肩代わりしない。
担当も全部やらない。
玉ねぎを切り、ソースを補充し、容器を並べる。
途中、担当が好代の首元を見る。
「昨日、座った人って」
「私です」
「じゃあ、やっぱり好代さんが正しい例なんですね」
包丁を置く音がした。
好代も手を止める。
「違います」
「でも」
「昨日の私は、昨日の私には必要でした」
好代は首の薄い線に触れる。
「今日のあなたに同じ形が必要かは、別です」
担当は壁の紙を見る。
「難しいですね」
「はい」
閉店前、憧憬が三行へスマートフォンを向けた。
好代がレンズを手で隠す。
「待ってください」
「撮っちゃだめ?」
「その紙だけ撮ると、今日の話が消えるので」
「好代ちゃんも一緒に入る?」
「もっと違います」
憧憬は笑う。
「形にすると広がるの早いよ☆」
「早いから困ってます」
好代は三行の紙を剥がした。
捨てない。
裏返す。
《玉ねぎ 残2》
《ソース 残1》
今日しか使えない情報を書いて、同じ場所へ戻した。
「そっちは明日には古くなるよ?」
「はい」
「もったいなくない?」
「古くなったら、書き直せます」
翌朝。
レジ内の椅子は一脚だけだった。
背もたれに小さな紙がある。
《必要な人が使ってください》
誰が書いたかは分からない。
好代は剥がさなかった。
昼過ぎ、客席の女性が電話で言った。
「昨日ここの人が、『嫌なら断っていい』って言ってたんだって」
好代はレジから顔を上げた。
その言葉は、昨日も一昨日も、言っていなかった。




