第41話「ご注文は?」
復帰初日、好代は制服の襟を三回直した。
布が首の線に触れる。
痛くはない。
でも、飲み込むたびに皮膚が少し引く。
上げる。
下げる。
もう一度上げる。
「隠しますか?」
後ろで世達が聞く。
「……迷ってます」
「制服規定上は、どちらでも問題ありません」
「そういう答え来ると思いました」
復帰初日は四時間。
休憩二回。
重い在庫は禁止。
ふらついたらその場で座る。
「最後の、店員として嫌ですね」
「倒れるよりはましです」
好代は襟を下げた。
薄い線が少し見える。
そのまま店へ出た。
十一時十二分。
最初の客は、何も知らなかった。
「これ、玉ねぎ抜けます?」
「抜けます。ソースはそのままで大丈夫ですか?」
「多めにできます?」
「確認します」
厨房へ聞く。
返事が来る。
「できます」
会計。
レシート。
番号札。
客は席へ行く。
何も起きない。
好代は一瞬、手元を見た。
昨日まで、自分が昨日の自分と同じかを確かめていた。
今日は玉ねぎが抜けるかどうかだった。
昼前、親子が来る。
「チーズなしで」
母親が言う。
子どもが袖を引く。
「ピクルスもやだ」
「ピクルスも抜きますか?」
大きく頷く。
「すみません、いろいろ」
「大丈夫です」
好代は入力する。
ピクルス抜き。
確定ボタンへ指を伸ばした瞬間、首の下が硬く縮んだ。
息が半分で止まる。
視界の端が白くなる。
大丈夫です。
口がその形を作りかける。
「……ちょっとだけ待ってください」
好代はカウンター内の椅子を引いた。
座る。
母親の顔が心配そうに近づく。
「大丈夫ですか?」
好代は頷かなかった。
「三十秒ください」
世達が隣のレジを開ける。
「次のお客様、こちらへお願いします」
注文列が横へ流れる。
好代の前だけが止まる。
首の線へ指を当てる。
一呼吸。
二呼吸。
肉の焼ける音。
レジの電子音。
子どもがメニューをめくる音。
三十秒。
白さが消える。
「お待たせしました」
「無理しないでくださいね」
「はい」
好代は注文画面を見る。
チーズなし。
ピクルスなし。
水。
確定する。
今度は指が止まらなかった。
◇
休憩室では、安寧が長椅子を半分使っていた。
「復帰祝いに寝るにゃー」
「安寧ちゃんが?」
「好代ちゃんも寝るにゃ」
「十五分しかないです」
「十分寝て、五分で起きるにゃ」
「起きるの長くないです?」
好代は隣へ座った。
目を閉じる。
厨房から油の音がする。
焼ける肉。
パンの甘い匂い。
PANDEMONIUMの、食べられるバーガーの匂い。
その奥に、もうここにはない普通のバーガーの味を思い出す。
おいしかった。
死んだ。
もう食べない。
目を開ける。
安寧はもう寝ている。
「早い……」
返事はない。
午後、さっきの子どもが帰り際に戻ってきた。
「おねえさん」
「はい?」
「ピクルス、なかった」
「よかったです」
「チーズもなかった」
「それもよかったです」
「なんにもなかった」
好代は吹き出した。
母親が後ろで謝る。
「すみません、この子」
「いえ。注文どおりです」
パンも肉もソースもあった。
でも、その子がいらないと言ったものは、ちゃんとなかった。
四時間が終わる。
世達が端末を見る。
「予定どおり退勤してください」
「まだできます」
「できますか、ではなく予定どおりです」
好代は反射で「大丈夫です」と言いそうになった。
やめる。
「……はい」
エプロンを外す。
ロッカーには、三十五話でもらったクレヨンのバーガーが残っている。
今日のエプロンを、その下へ置く。
保存するためではない。
そこが置きやすかっただけだった。
店から声がする。
「すみませーん」
好代の身体が先に振り向く。
一歩だけ店へ戻りかける。
世達の声が飛ぶ。
「こちらで伺います」
好代は止まった。
首の線に、さっきより弱い引きつりが残っている。
靴を履き替える。
店を出る。
自動扉が閉まる直前、世達の声が聞こえた。
「ご注文は?」
好代は振り返らなかった。
翌朝。
レジの内側に、椅子が三脚置かれていた。




