第4話「なくなる」
朝、好代はコップを落としかけた。
右手の指が滑る。
透明なコップが傾く。
その前に、床へ向かうコップが見えた。
一つ。
今、手の中にあるもの。
もう一つ。
少し先で落ちているもの。
好代は左手を出した。
ぱし。
受け止める。
水が指にかかった。
コップは割れなかった。
「……まだある」
母が台所の奥から振り向く。
「何が?」
「コップ」
「あるでしょ」
「うん」
好代はそれ以上言わなかった。
昨日、PANDEMONIUMで見えたトレーと似ている。
似ている。
同じとはまだ書けない。
テーブルへコップを置く。
もう一度落として確かめる、という考えが浮かぶ。
やめる。
割れるかもしれない物を、確認のために落とす必要はない。
代わりに冷蔵庫を開けた。
牛乳を奥へ置く。
扉を閉める。
少し待つ。
もう一度開ける前に、右手が動いた。
扉。
奥。
牛乳。
目で探すより先に取れた。
好代は牛乳を持ったまま止まる。
「……便利」
今度は母が聞かなかった。
スマートフォンを開く。
《昨日のバーガー?》
《コップ:落ちる前の像》
《牛乳:見ていない位置へ手が行った》
《同じ現象か:不明》
昨日なら《物の位置、動かし方が先に分かる》と一行にまとめていたかもしれない。
今日は分けた。
◇
昼。
学校の階段。
曲がり角へ近づいた時、誰もいないはずのところに肩が見えた。
好代は半歩左へ寄る。
一秒後、男子生徒が曲がってきた。
ぶつからない。
「ごめん」
「いえ」
男子生徒はそのまま行く。
好代だけが振り返る。
今のは、コップに近い。
牛乳とは少し違う気がする。
《階段:人が来る前に像》
入力する。
面白い。
怖い。
便利。
三つとも消さずに残した。
昨日、唇についたのはソースが少しだけだった。
一個なら。
そこまで考えたところで、舌の奥に普通のハンバーガーの味が戻った。
病院。
白い天井。
胸を押される感覚。
好代は階段の手すりを握る。
「……まだ」
食べたい。
でも、食べられると分かったわけではない。
一度死ななかっただけだ。
その二つも分けておく。
◇
放課後。
PANDEMONIUMへ行く道を一本手前で曲がった。
駅前のスーパーへ入る。
試したかったのは、店の外でも使えるかではない。
もう朝から店の外で使えている。
いつまで残るか。
それを見たかった。
飲料棚の前。
好代は目を閉じない。
朝の牛乳は、見なくても手が行った。
だから同じように、見えていない棚の端へ手を伸ばす。
止まる。
何も分からない。
一歩ずれる。
もう一度。
分からない。
今度は通路の角を見る。
誰かが来る前の像。
ない。
「……あれ」
十秒待つ。
客が一人、普通に曲がってくる。
先には見えなかった。
好代はスマートフォンを見る。
朝。
昼。
夕方。
同じ日に、できたことができなくなっている。
そこで腹が鳴った。
ぎゅるるるる。
近くの客がこちらを見る。
好代は腹を押さえた。
恥ずかしい。
その次に、気づく。
朝食。
昼食。
昨日のソース。
食べたものは、とっくに胃から先へ進んでいるはずだ。
でも、どこまで進んだかは分からない。
能力らしい現象が消えた時刻も、今この瞬間とは限らない。
腹が鳴ったことと同時かどうかも分からない。
好代はメモする。
《16:41 確認できず》
《ぎゅるるる:16:43》
二分違う。
その二分が、少し嬉しかった。
同じだと思わずに済む。
◇
帰宅後。
夕食。
風呂。
宿題。
三回、試した。
机から落ちそうになった消しゴム。
見えなかった。
閉めた引き出しの中の定規。
位置は分からなかった。
廊下の向こうから来た母。
先には見えなかった。
戻らない。
好代は朝のメモを開く。
《コップ:落ちる前の像》
《牛乳:見ていない位置へ手が行った》
《階段:人が来る前に像》
その下へ、
《夕方以降、再現できず》
と書く。
《ぎゅるるるの後に消えた》
書いて、消す。
時刻が逆だった。
《消失確認16:41/ぎゅるるる16:43》
さらに、
《食べたものがなくなると、一緒になくなる?》
と書く。
疑問符を一つ増やす。
《食べたものがなくなると、一緒になくなる??》
それでも足りない気がして、下へ追加する。
《関係:未確認》
好代は画面を見る。
確かめる方法はある。
また食べる。
同じように消えるか見る。
できれば量も変える。
そこまで考えて、指が止まる。
普通のハンバーガーなら、その実験はほとんど「もう一度死んでみる」と同じだ。
PANDEMONIUMのものは、一度だけ死ななかった。
一度だけ。
だから勝手に二度目へ進んではいけない。
《渾沌さんに相談》
と書く。
相談。
許可ではない。
安全確認も必要だ。
《誰かに見てもらう》
も追加した。
◇
翌日。
店の札は《押す》だった。
好代は押す。
開かない。
「……はい」
引く。
開く。
「来た!」
渾沌が奥から走ってくる。
「来ました」
「昨日のやつどう!?」
「なくなりました」
渾沌が止まる。
「何が?」
「昨日、見えたものです。朝と昼は確認できました。夕方には確認できませんでした」
「全部?」
「試した範囲では」
「お腹鳴った?」
好代は一瞬、渾沌を見る。
「なんでそこなんですか」
「お腹だから!」
「鳴りました。でも、できなくなったのを確認した二分後です」
「二分!」
「なので、同じ原因とはまだ言えません」
好代はスマートフォンを見せる。
渾沌が画面を覗く。
「じゃあ、食べた分だけ借りてた、とか?」
「候補には入れてます」
「もう一回食べたら分かるかも!」
「はい」
渾沌が笑う。
好代は続ける。
「なので、勝手には食べません」
渾沌の笑顔が止まる。
「あ」
「昨日、言いましたよね」
「勝手に食べるの禁止!」
「はい」
「ちゃんと見ながら!」
「はい」
「少しずつ!」
好代はそこで首を傾げる。
「誰が見ます?」
「私!」
「渾沌さんだけで大丈夫ですか」
「ひどい!」
「昨日、面白そうって言ってたので」
「でも面白くない危ないやつは止めるよ!」
好代は少し考える。
「もう一人、お願いします」
渾沌は頬を膨らませたあと、奥へ向かって叫ぶ。
「摩天ちゃーん!」
返事はまだない。
好代はカウンターを見る。
昨日の箱はない。
代わりに、新しい包み紙がいくつもある。
油の音。
知らない匂い。
食べられるかもしれない。
能力らしいものが出るかもしれない。
また消えるかもしれない。
そして、普通のバーガーと同じように死ぬ可能性が、本当にゼロになったわけでもない。
それでも。
「食べたいです」
好代は言った。
渾沌が振り返る。
「怖くない?」
「怖いです」
「じゃあ、なんで?」
好代は匂いを吸う。
昨日とは違う。
何が入っているのか、まだ分からない。
「なくなるところまで、ちゃんと見たいので」
言ってから、少し違うと思った。
それだけではない。
「あと」
「あと?」
好代は包み紙を見る。
「おいしかったので」
渾沌が笑った。
今度は好代も笑った。
奥から足音がした。




