第3話「懐かしい」
箱の中には、包み紙が一つあった。
白い紙。
端だけ、少し焦げている。
好代は近づかなかった。
近づかなかったのに、においの方が来た。
雨。
古い本。
焼いた肉。
そのどれでもないもの。
腹がもう一度鳴る。
「これ、何ですか」
「知らない!」
渾沌は即答してから、箱と好代を交互に見た。
「だから触んないでね!」
「触りません」
「食べないでね!」
「食べません」
「絶対?」
「三日前に心臓止まった人へ聞きます?」
「聞かない方がよかった!」
渾沌が箱へ寄る。
その足元で、
ごとん。
床が鳴った。
細い継ぎ目が開く。
金属板がせり上がった。
箱の片側が持ち上がる。
「え」
包み紙が滑った。
渾沌が手を伸ばす。
届く前に、小さな受け皿へ落ちる。
受け皿が走る。
「そっちじゃない!」
「どこ行くんですか」
「知らない!」
厨房脇の小窓が開く。
包み紙が渡る。
向こうの台が傾く。
次の受け板へ。
さらにベルトへ。
一つ一つは店にありそうな設備だった。
ただ、連携だけがおかしい。
全部が、包み紙を好代のいる側へ送ってくる。
好代は一歩下がる。
ベルトが一段伸びた。
もう一歩。
壁から受け板が出る。
「好代ちゃん、下がって!」
好代は止まった。
「今、名前」
「あと!」
渾沌が横から包み紙を取ろうとする。
紙が受け板の端で回転した。
渾沌の指を抜ける。
好代の胸へ来た。
反射で受ける。
温かい。
「離して!」
好代は手を開く。
その瞬間、包み紙の底がほどけた。
バーガーが落ちる。
顔を引く。
間に合わない。
柔らかいバンズが頬へ当たった。
赤いソースが唇につく。
好代の身体が固まった。
店が消えたわけではない。
目の前にある。
でも身体だけが、三日前へ戻った。
歩道。
開いた包み紙。
甘いソース。
舌の熱。
白い天井。
好代は唇を閉じる。
舐めない。
舐めないつもりだった。
息を吸った。
ソースが唇の内側へ触れた。
味がした。
◇
一秒。
好代はバーガーを床へ落とした。
二秒。
後ろへ下がる。
三秒。
舌。
熱くない。
四秒。
指先。
痺れない。
五秒。
喉。
閉じない。
六秒。
胸。
好代は自分で手を当てた。
動いている。
七秒。
息を吸う。
入る。
八秒。
「……なんで」
九秒。
怖くなる。
症状が来ないことが、怖い。
三日前なら、もう立っていなかった。
十秒。
好代は渾沌を見る。
「時間、見てください」
渾沌は一瞬きょとんとして、すぐ壁の時計を見る。
「見る!」
「息、普通です。喉も。胸も」
「ほんと!?」
「今は」
「指!」
渾沌が三本立てる。
「三本」
「名前!」
「販歯厚餓安好代」
「長い!」
「聞いたのそっちです」
声も出る。
好代は壁へ背をつけた。
座らない。
まだ倒れるかもしれないから、床までの距離を短くしたかった。
十五秒。
二十秒。
三十秒。
何も起きない。
「救急、呼びます?」
渾沌が聞く。
好代はすぐには答えない。
三日前は心停止まで行った。
今回は症状がない。
でも、ないことは安全の証明ではない。
「電話できるようにしてください。今はここで見ます」
「分かった!」
渾沌が端末を持ってくる。
好代は時計を見る。
一分。
二分。
三分。
まだ生きている。
そこで初めて、床のバーガーを見た。
上のバンズがずれている。
肉。
チーズ。
赤いソース。
見た目は、ハンバーガーだった。
普通のものと何が違うのか、見ただけでは分からない。
好代は唇を紙で拭う。
赤い跡。
その紙を見ていると、さっきの味が戻ってきた。
甘い。
少し酸っぱい。
その後ろに、知らない味。
食べたことがない。
少なくとも、好代が覚えている範囲では。
なのに胸の奥が緩む。
病院でもない。
家でもない。
学校でもない。
初めて来た店の、初めて口へ入った味。
それなのに。
「……懐かしい」
渾沌が黙る。
好代も黙る。
言ってから、その言葉が一番おかしいと気づいた。
「何が?」
「分かりません」
「食べたことある?」
「覚えてる範囲では、ないです」
「ここ来たことは?」
「ないです」
「じゃあ何が懐かしいの?」
好代は赤く汚れた紙を見る。
「分からないから、今は懐かしいって感じたことだけにします」
「何それ!」
「原因まで書くと嘘になるので」
渾沌が目を丸くして、それから笑った。
「好代ちゃん、変!」
「この店で言われたくないです」
◇
床のバーガーは渾沌がトングで回収した。
好代は触らない。
包み紙も別の容器へ入れる。
「これ、捨てないでください」
「食べるの?」
「食べません」
「じゃあなんで?」
「何だったか、あとで確認できるかもしれないので」
「なるほど!」
「捨てるかどうかも、分かる人に聞いてください」
「はーい!」
箱を見る。
閉じている。
留め具も戻っている。
床の板。
小窓。
受け皿。
ベルト。
全部止まっている。
好代は順番を思い出す。
箱が傾いた。
受け皿へ落ちた。
小窓が開いた。
台が傾いた。
ベルトが動いた。
受け板が出た。
渾沌の手を抜けた。
自分へ来た。
「さっきの設備、普段もああやって動きます?」
「動くのはあるよ!」
「全部つながって?」
「今日は変!」
「私が下がったら伸びました」
「伸びたね!」
「私に渡そうとしてたと思います?」
渾沌が首を傾げる。
「そう見えた!」
「見えた、ですね」
好代はスマートフォンへ打つ。
《設備が連続作動》
《結果:バーガーが自分の位置へ到達》
《目的:不明》
《店が食べさせた:未確定》
渾沌が覗く。
「そこまで書く?」
「名前も知られてました」
「あ」
「渾沌さん、いつ私の名前を知りました?」
渾沌が止まる。
「……いつだっけ?」
「私、言ってないと思います」
「じゃあ誰かから聞いた?」
「誰に?」
二人で店の奥を見る。
返事はない。
好代はその問いもメモする。
《渾沌さんが名前を知っていた理由:不明》
それ以上は書かない。
◇
帰る前。
好代は入口まで歩いた。
身体は普通に動く。
喉も胸も変わらない。
だから安全だった、とはまだ思わない。
今日分かったのは、普通のハンバーガーで起きた反応が、今回は今のところ起きていないことだけだ。
「次、来てもいいですか」
「もちろん!」
渾沌は即答する。
「でも勝手に食べるの禁止!」
「今日も勝手には食べてません」
「店が勝手に食べさせた!」
好代は振り返る。
「それ、まだ未確定です」
「細かい!」
「死ぬかもしれないので」
渾沌の笑顔が少しだけ止まる。
「……うん。そこは細かくしよ」
好代はドアへ向く。
床にトレーが一枚落ちている。
さっきの騒ぎで落ちたらしい。
拾う。
その瞬間、手の中のトレーへ、もう一枚が重なった。
半歩右。
そこにないはずのトレー。
知らない手が縁を持っている。
一瞬。
消える。
好代は動かない。
「……渾沌さん」
「なに?」
「今、変なの見ました」
「どんな?」
「トレーが、二つ」
好代はまず言葉にした。
それから、半歩右へ移る。
見えた手の位置へ自分の指を置く。
何かが分かる。
どこへ持っていくか。
いや。
分かる、と思った。
好代はその違いに引っかかった。
「そこに置く気がします」
「どこ?」
「厨房の横」
「そこ返却口じゃないよ?」
好代は止まる。
旧稿なら、そのまま置いたかもしれない。
今は置かない。
「じゃあ、試していいですか」
「何を?」
「置いたら何が起きるか」
渾沌がにやっとする。
「面白そう!」
「触らないで見ててください」
「はーい!」
好代はトレーを厨房横の棚へ置く。
一秒。
何もない。
二秒。
奥で、
かちり。
何かが噛み合う。
好代と渾沌が同時にそちらを見る。
「今の、何ですか」
「知らない!」
好代はトレーから手を離す。
正しい場所だった、とは書かない。
《置きたくなった位置へ置いた》
《直後、奥で作動音》
《関係:未確認》
保存する。
腹の奥が、小さく鳴った。




