第2話「いい店だと思った。」
三日後。
また、においがした。
好代は横断歩道を渡り切ったところで止まった。
胸へ手が行く。
服の下には、まだAEDのパッド跡が薄く残っている。
肉ではない。
パンでもない。
ソースでもない。
それなのに、ハンバーガーのにおいだと思う。
退院した日に嗅いだものと似ている。
同じかどうかは分からない。
好代はスマートフォンを開いた。
時刻。
交差点。
風向きは分からない。
《知らないバーガー様の匂い》
とだけ打つ。
路地を見る。
三日前は何もなかった。
今日は、店がある。
「……ある」
声にすると、少し怖くなった。
三日前に見落としただけかもしれない。
工事でできたのかもしれない。
そんな大きさではない。
看板は路地の幅より大きく見える。
建物は、見上げても上端がうまく見つからない。
好代は道路の反対側へ一度渡った。
もう一度見る。
ある。
写真を一枚撮る。
画面にも店は写った。
消えない。
それで安全になるわけではない。
ただ、自分にしか見えていない可能性が一つ減った。
好代は入口まで歩く。
ガラス戸。
取っ手。
小さな札。
《引く》
取っ手を引く。
開かない。
「……押す?」
押す。
開いた。
好代は入らない。
片足だけ敷居の手前に残したまま、中を見る。
油の音。
トレーの重なる音。
低い機械音。
誰かの声。
普通の店にある音が、少なくとも四つある。
その奥に、知らない音が混じる。
遠くで金属を一度だけ曲げたような音。
好代は三秒待った。
何も飛んでこない。
入った。
◇
あったかい。
最初に思ったのは、それだった。
暖房の温度だけではない。
鉄板の熱。
揚げ油。
人が動いたあとの空気。
紙の匂い。
食べ物を作っている場所の熱だった。
好代はそれを知っている。
食べられなくても、店の前には何度も立ってきたから。
知らない場所なのに、知っている種類の温度がある。
それだけで肩が少し下がった。
カウンターまで歩く。
一歩。
二歩。
三歩目。
長い。
好代は止まる。
足元を見る。
タイルは同じ幅に見える。
後ろを見る。
入口は三歩より遠い。
もう一度、カウンターを見る。
距離を測る道具は持っていない。
好代はスマートフォンへ、
《三歩目だけ長く感じた》
と打つ。
《床が伸びた》とは書かない。
「お客さん?」
横から声がした。
好代は振り向く。
女の子がいる。
胸元に名札。
《渾沌》
「たぶん」
「たぶんなんだ!」
「まだ注文してないので」
「注文したらお客さん?」
「普通は、入った時点かもしれません」
「じゃあお客さん!」
「決まるの早いですね」
渾沌が笑う。
「何しに来たの?」
好代は店内を見回す。
「においです」
「におい?」
「外まで来てました。ハンバーガーっぽいんですけど、何なのか分からなくて」
「分かんないのにハンバーガーなの?」
「そう思っただけです」
「面白そう!」
渾沌が一歩近づく。
好代は一歩下がる。
反射だった。
渾沌が止まる。
好代は胸を押さえていない自分に気づく。
代わりに、出口の位置を見ていた。
「……店員さんですよね?」
「そうだよ!」
「客に面白そうって言います?」
「言わない方がいい?」
「普通は」
「じゃあここではヨシ!」
「その判断、店として大丈夫ですか」
「今のところ!」
何の保証にもならない。
でも、少し笑った。
◇
メニューは読めた。
そのことに好代は先に驚いた。
写真にはハンバーガーらしいものが並んでいる。
夜みたいに黒いバンズ。
包み紙の中だけ細い雨が落ちているもの。
チーズの端が下へ垂れているのに、いつまで見ても床へ着かないもの。
値段は数字だった。
普通の数字。
好代は一つずつ見る。
「食べる?」
首を横へ振る。
そこだけは考えなかった。
「食べません」
「嫌い?」
「好きです」
「好きなのに?」
「死ぬので」
渾沌の顔から笑いが消えた。
ほんの一秒。
でも好代は見た。
「ほんとに?」
「三日前、心臓止まりました」
「それは食べない方がいいね!」
「はい」
渾沌がメニューへ伸ばしかけた手を引く。
「試すのもなし!」
好代は渾沌を見る。
「さっきまで面白そうって」
「死ぬ方は面白くない!」
即答だった。
好代は少しだけ息を吐く。
「見るだけなら?」
渾沌が聞く。
「見たいです」
「においだけなら?」
「もっと見たいです」
「じゃ、こっち!」
「触らないです」
「触らせない!」
二人で店の奥へ行く。
好代は歩きながら、出口までの道を一度振り返った。
渾沌はそれを見ても何も言わない。
◇
店の奥ほど、においが増える。
普通なら、混ざる。
油と肉とパンとソースが重なって、一つの店の匂いになる。
ここでは、混ざっているのに分かれていた。
焼けた肉に似たもの。
雨上がりの道路。
古い本。
海ではない塩。
鉄を濡らしたようなもの。
好代は一つずつ鼻で追う。
「これは焦げてます?」
「焦げてないよ!」
「じゃあ、燃えた後みたいな」
「そっちは近いかも!」
「何が燃えたんですか」
「知らない!」
「これは海?」
「海じゃない!」
「でも塩っぽいです」
「海だったことはあるかも!」
「何がですか」
「私も知りたい!」
好代は笑った。
笑ってから、少し驚いた。
病院を出てから、ハンバーガーの話で笑ったのは初めてだった。
母とは話せなかった。
医師とは危険の話だけだった。
学校では、そもそも話していない。
ここでは、食べなくてもハンバーガーの話をしていい。
そのことが嬉しい。
好代はすぐには、その言葉を使わなかった。
代わりに、もう一度息を吸う。
油。
鉄板。
紙。
雨。
古い本。
知らないもの。
胸の奥が少し緩む。
「変だな」
「何が?」
「怖いもの、いっぱいあるのに」
好代は入口を見る。
まだ見える。
「帰ろうとは思ってないです」
渾沌が好代を見る。
「帰りたくない?」
「それとも違います」
好代は少し考える。
「もう少し見たいです」
「それなら見よー!」
渾沌は簡単に言う。
その簡単さが、今は助かった。
◇
冷蔵庫らしい扉の前で、好代は止まる。
開けない。
横の棚にも触れない。
渾沌が一つずつ指す。
「これは?」
「雨っぽいです」
「これは?」
「紙。古い方」
「これは?」
好代は長く嗅ぐ。
「……分かりません」
「やった!」
「何で喜ぶんですか」
「分かんないのあった!」
「いっぱいありますよ」
「もっとある?」
「あります」
渾沌が楽しそうに笑う。
好代は棚を見る。
分からないものがある。
食べられないものがある。
触らないと決めたものがある。
それでも、ここにいていいらしい。
店員は追い出さない。
食べろとも言わない。
好代はそこで初めて、入口からずっと握っていたスマートフォンをポケットへ入れた。
「いい店だと思います」
渾沌が瞬きをする。
「まだ何も食べてないよ?」
「だから、かもしれません」
「食べない方がいい店ってこと?」
「違います」
好代は少し笑う。
「食べなくても、いさせてくれるので」
渾沌は一拍黙った。
「それ、普通じゃない?」
「私には、あんまり普通じゃなかったです」
渾沌は何か言いかける。
その前に、
かちん。
厨房の奥で音がした。
二人とも振り向く。
もう一度。
かちん。
閉じていた箱の留め具が外れる。
蓋が少し持ち上がる。
渾沌が眉を上げた。
「ん?」
好代は動かない。
箱の中から、においが来た。
今までのどれとも違う。
好代は反射的に一歩下がる。
出口はまだ見える。
逃げられる。
それを確認してから、もう一度だけ嗅ぐ。
知らない。
食べた記憶もない。
どこで嗅いだかも思い出せない。
それなのに、胸の奥だけが先に反応した。
好代は言葉を探す。
見つからない。
「……これ」
腹が鳴った。




