第1話「ハンバーガーが、好きだ。」
ハンバーガーが、好きだ。
焼けたバンズのにおいが好きだ。
鉄板へ落ちた脂が、じゅっと煙になる瞬間が好きだ。
肉の焦げた端。
温まったチーズ。
酸っぱいピクルス。
甘いソース。
紙袋の中で、それが一つになるにおいが好きだ。
だから好代は、店の前で立ち止まる。
入らない。
夕方の自動ドアが開く。
熱い空気が歩道へ漏れる。
好代は二歩だけ近づいて、鼻から息を吸った。
「……今日、チーズ強い」
ポテトの油。
焼いた肉。
パン。
ソース。
ピクルスは少ない。
たぶん。
店の中へ入れば、もっと分かる。
入らない。
スマートフォンを開く。
《駅前店 17:12》
《油:新しめ?》
《チーズ強》
《ピクルス弱》
疑問符をつける。
食べて確かめられないからだ。
好代は、ハンバーガーを食べると死ぬ。
◇
販歯厚餓安好代、十七歳。
家では昔から「ハンバーガーアレルギー」で通っている。
医師がそういう正式名称を使ったわけではない。
原因も、好代には分からない。
肉だけなら平気だった。
パンも平気。
チーズも、レタスも、ピクルスも、ソースも、単体なら問題ない。
ハンバーグも食べられる。
サンドイッチも、これまで食べた範囲では問題なかった。
ところが、それらが好代の身体にとって「ハンバーガー」になると、ひどい反応が起きる。
何を境に身体がそう判断しているのかは、分からない。
三歳のとき、初めて食べた。
おいしい、と思ったところまでは覚えている。
その後は病院だった。
昔は、何度も試した。
バンズを変えた。
肉を変えた。
野菜を抜いた。
ソースを変えた。
小さくした。
家で作った。
それでも駄目だった。
だから今は、自分から試さない。
やめたのは食べることだけだった。
好きなのは、やめられなかった。
それで、においを覚えた。
店ごとの油。
焼き加減。
ソースの甘さ。
包み紙を開けた直後と、五分持ち歩いたあとの違い。
当たっているかは分からない。
だから、いつも疑問符が増える。
食べられないなら、せめて知りたかった。
今日も、それだけのはずだった。
◇
横断歩道の手前で、子どもが紙袋を落とした。
底が抜けた。
包み紙が一つ、歩道へ転がる。
好代の靴に当たった。
反射でしゃがむ。
その途中で止まった。
バーガーだ。
触るだけなら、これまでは問題なかった。
それでも一拍置く。
包み紙の端だけを持つ。
「落ちましたよ」
母親らしい人が、子どもの手を引いたまま頭を下げる。
「あっ、すみません!」
「いえ」
渡そうとする。
自転車のベルが鳴った。
歩道へ入ってくる。
好代は半歩よける。
子どもも動く。
受け取ろうとした小さな手が、好代の手首へ当たった。
包み紙が開く。
中身が傾く。
落とさないよう、好代は反射で両手を出した。
バーガーの端が顎へ当たった。
赤いソースが唇につく。
好代の身体が固まった。
舐めない。
口を開けない。
紙袋を母親へ押し返す。
「これ、持って」
声が少し高くなる。
母親が受け取る。
好代はポケットからティッシュを出す。
拭く。
一枚。
二枚。
唇の外側。
口角。
「大丈夫ですか?」
「分かりません」
三枚目。
拭いた。
それでも、舌の端に味がした。
ほんの少し。
甘い。
酸っぱい。
肉の脂。
チーズ。
好代は時計を見る。
17:26。
「救急車、呼んでください」
母親が目を見開く。
「え?」
「ハンバーガーで、重い反応が出ます」
自分のスマートフォンを取り出す。
指がまだ動く。
母へ発信する。
一回。
二回。
つながる。
「お母さん」
三秒。
舌の奥が熱い。
「バーガー、口についた」
『え?』
五秒。
指先が痺れる。
「駅前。横断歩道の」
『好代? ちょっと、好代』
「救急、呼んでもらってる」
母親らしい人が震える手で電話をしている。
好代は壁へ背をつける。
立ったまま倒れないように。
十秒。
膝から力が抜ける。
しゃがむつもりだった。
途中で脚が言うことをきかなくなった。
地面が近づく。
「ああ」
これだ。
忘れていたわけではない。
身体の方が、ずっと覚えていた。
誰かが肩を支える。
電話の向こうで母が名前を呼んでいる。
好代は息を吸おうとする。
細い。
もう一度。
入らない。
怖い。
今度は味のことを考えないようにした。
でも、最後まで口の中に残っていた。
おいしかった。
それが嫌だった。
◇
音が先に戻った。
一定の電子音。
布の擦れる音。
誰かの足音。
次に、白い天井。
最後に母の顔。
「分かる?」
好代は返事をしようとして、胸が痛んだ。
酸素マスクの中で息をする。
「……心臓?」
母の口元が歪む。
「止まったって」
一度、息を飲む。
「すぐ戻ったけど。AEDも使って。救急の人が……」
その先は声にならなかった。
好代は胸へ手を置こうとして、点滴の管に引っかかる。
やめる。
今回は、自分から食べていない。
舐めてもいない。
できることはした。
拭いた。
救急車を頼んだ。
母へ電話した。
それでも心臓まで止まった。
好代は目を閉じる。
怖かった。
死ぬことも。
母の顔も。
それから、あれだけのことが起きても、味を嫌いになれなかった自分も。
◇
医師には、接触から救急要請までを聞かれた。
好代は時刻を答えた。
17:26。
症状の順番も、覚えている範囲で答えた。
母は隣でずっと黙っていた。
病室へ戻ってから言った。
「もう、バーガー屋さんの前に行くのもやめよう」
好代はすぐには返事をしなかった。
母が悪いわけではない。
当然だと思う。
「……うん」
言った。
母が好代を見る。
「ほんと?」
「しばらくは」
完全な約束にはできなかった。
母にも分かったらしい。
何も言わず、好代の掛け布団の端を直した。
その手が少し震えていた。
好代は見ないふりをした。
◇
退院した日の夕方。
好代は遠回りした。
約束した店の前を通らないためだった。
一本裏の道。
知らないクリーニング店。
小さな公園。
自動販売機。
その先に、別のハンバーガーショップがあった。
好代は止まる。
「……そっちにもあるんだ」
道を変えようとする。
換気口から風が来た。
焼いた肉。
油。
チーズ。
パン。
足が止まった。
胸にはまだ、AEDのパッド跡が薄く残っている。
服の上から触れる。
怖い。
三日前より、ずっと具体的に怖い。
店には近づかない。
歩道の反対側に立ったまま、鼻から一度だけ息を吸う。
肉。
油。
チーズ。
パン。
「……うまそう」
言ってしまった。
笑えなかった。
でも、泣きもしなかった。
死にかけても、好きなものは嫌いになってくれなかった。
好代は店に背を向ける。
今日は帰る。
その時だった。
別のにおいが混じった。
好代は足を止める。
肉ではない。
パンでもない。
ソースでもない。
なのに、どうしてか。
ハンバーガーのにおいだと思った。
今の店からではない。
風上を探す。
細い路地。
看板はない。
人もいない。
好代は一歩だけ、そちらへ向く。
胸の跡に触れる。
行きたい。
怖い。
二つとも本当だった。
スマートフォンを出す。
時刻だけ記録する。
《17:48》
その下へ、
《知らないバーガー様の匂い》
と打つ。
《追う》
と書きかける。
消す。
今日は帰る。
好代は路地へ入らなかった。
家までの道を歩いた。
それでも、角を二つ曲がるまで、知らないにおいは消えなかった。




