第35話「今日のわたし」
白い粒子の分析結果は、まだ出ていなかった。
朝、真意が言った。
「追加調査なら、今日できます」
好代は手を止める。
「何を見られます?」
「旧資材記録。改修前図面。壁材の年代比較」
全部見たい。
昨日から、何度も考えていた。
「何時ですか?」
「十四時から。十五時半まで」
好代は予定表へ書く。
《14:00 調査》
その横に世達が赤字を入れた。
《14:00 団体26名》
「同じですね」
「同じです」
「私が抜けても回ります?」
「通常条件なら」
通常条件。
好代はその言葉の横へ小さく丸をつけた。
昼前、無常が今日のおすすめ札を書き替えていた。
昨日の札を剥がす。
「昨日の方、人気でしたよ」
「そうでしたね」
「今日は出さないんですか?」
「今日は材料が違いますし、来る客もまだ分かりませんから」
無常は新しい札を立てる。
「昨日よかったものを、今日も置くのはだめです?」
「だめじゃありませんよ」
ペンを置く。
「ただ、昨日よかったから、だけで今日も決めなくていいんです。今はね」
好代は昨日の札を見る。
捨てられる前に写真を撮ろうかと思った。
撮らなかった。
十三時五十分。
真意から届く。
《調査開始可能》
好代はエプロンのポケットへ端末を入れた。
あと十分。
その瞬間、自動扉が開いた。
団体客だった。
予定より十分早い。
しかも通常条件ではなかった。
子どもが多い。
席を二つ増やす。
注文変更。
アレルギー確認。
飲み物がこぼれる。
一人がトイレへ行って注文順がずれる。
好代はポケットの端末が震えるのを感じた。
取り出さない。
「こちら、卵は使っていません。ソースだけ別で確認します」
厨房へ走る。
戻る。
十四時十二分。
鉄板前が詰まる。
落ちかけたトレーが視界に入った。
好代の中に、落下軌道をずらす感覚が立ち上がる。
使えば早い。
でも、そのトレーは世達がもう掴んでいた。
好代は手を引く。
「注文、読みます」
能力がある。
使える。
今それを使う必要がある。
三つは同じではなかった。
十四時二十七分。
「まだ来てない」
子どもの声。
好代が伝票を見る。
一件だけ注文が通っていない。
自分の入力漏れだった。
胸の奥が冷える。
調査へ行かないと決めたせいではない。
能力を使わなかったせいでもない。
単純に、自分が押し忘れた。
「ごめんなさい。私のミスです。今すぐ作ります」
厨房へ伝える。
待っている子どもの前へ水を置く。
「あと何分?」
「今から七分くらいです」
「長い」
「はい。長いです」
好代は逃げずにそこにいた。
七分後、バーガーが届く。
子どもは一口食べた。
怒っていた顔のまま、もう一口食べた。
それで許されたとは思わなかった。
十五時九分。
最後の皿が出た。
真意から二件目。
《本日調査枠 15:30まで》
二十一分。
走れば間に合う。
好代はエプロンを見る。
ソースが一滴ついている。
客席では食器がまだ残っている。
入力漏れの子どもは、母親と帰り支度をしていた。
行ける。
行かない理由もない。
だから、端末を開いた。
《今日は行きません。別日にお願いします》
送信。
すぐ返る。
《了解。資料は保全します》
好代はその文を二度読んだ。
調査を捨てたわけではない。
今日しかない資料でもない。
でも、今日の十四時から十五時半は、もう戻らない。
それは自分で店に使った。
「これ」
さっきの子どもが戻ってきた。
紙ナプキン。
クレヨンでバーガーが描いてある。
丸いバンズ。
具が多すぎて、横から全部はみ出している。
「おねえさんに」
「……ありがとうございます」
「七分長かった」
「はい。ごめんなさい」
「でも、おいしかった」
子どもは母親のところへ走った。
好代は絵を持ったまま、少し笑った。
失敗が帳消しになったわけではない。
それでも、その紙は嬉しかった。
片づけの途中、無常が昨日のおすすめ札をゴミ箱へ入れた。
好代が目で追う。
「取っておきます?」
「……いえ」
「昨日は人気でしたけど」
「はい」
好代は少し考える。
「必要になったら、昨日の売上記録を見ます。札そのものは、もういいです」
閉店後。
好代は昨日の壁の前を通った。
半歩だけ、存在しない棚を避ける。
身体はまだ覚えている。
立ち止まらない。
ロッカーを開ける。
古い発注表。
昔の記録。
今日使ったエプロン。
好代は子どもの絵をどこへ置くか迷った。
古い発注表の隣へ置きかける。
やめる。
エプロンの上へ置いた。
今日もらったものだから、というだけだった。
ロッカーを閉める。
帰る前、真意へもう一件送る。
《調査、次に空いている日を教えてください》
すぐ返事が来る。
《確認します》
好代は端末をしまった。
今日を選んだ。
だから明日、過去を調べないわけではない。
翌日の昼、バックヤードの扉が三回開いた。
同時に。




