第34話「記憶にある」
厨房の壁に、棚があるはずだった。
好代はトレーを抱えたまま、半歩よけた。
何もない。
壁だった。
「……あれ?」
後ろの世達が止まる。
「何かありますか?」
「いえ」
好代は壁を見る。
白でも黒でもない、今の厨房の壁。
なのに身体は、そこを通る時だけ肩を引いていた。
もう一度、まっすぐ歩く。
近づく。
半歩。
また避けた。
今度は意識して止まる。
「ここ、棚ありませんでした?」
真意を呼ぶ。
「現在はありません」
「前は?」
「記録を確認しますか?」
好代は首を振った。
「その前に、私が覚えてる方を書きます」
紙を一枚もらう。
壁。
二段棚。
上段、銀色の容器が三つ。
下段、紙袋。
右端だけ焦げ。
床は白いタイル。
入口側から四枚目だけ薄い青。
好代は最後に位置を書いた。
《棚の右端:排気口から約一歩半》
ペンを置く。
「これで記録見ます」
現店舗の改修記録。
この壁面に棚を設置した履歴は、確認できない。
床材の記録も、現在の灰色材までしか遡れない。
「記録が抜けてる可能性は?」
「あります」
「棚がなかった可能性も?」
「残ります」
好代は自分の紙を見る。
数字まで書ける。
だから余計に、本当にあった気がした。
「夢幻ちゃんに見てもらっていいですか?」
夢幻が来る。
眠そうな目で紙を見ないまま壁を見る。
「先に紙、見ない方がいい?」
「はい。私の書いたものに合わせたくないです」
「じゃあ、あなたが見てる方だけねえ」
厨房の輪郭が少し揺れた。
今の壁へ、別の厨房が重なる。
二段棚。
銀色の容器。
紙袋。
右端の焦げ。
白い床。
一枚だけ薄い青。
好代の喉が鳴る。
位置も近い。
「これです」
「あなたの中では、かなりはっきりしてるねえ」
「本物ですか?」
夢幻は棚へ触れる真似をする。
指は通り抜ける。
「そこまでは、これじゃ分からないよ」
好代も手を伸ばす。
棚板が見える。
指先には壁の冷たさだけが来た。
見える方が、触れる方より鮮明だった。
そのことが気持ち悪かった。
「壁、調べられます?」
営業設備と配線を確認する。
限定範囲だけ外す。
木下地。
配線。
断熱材。
好代は自分の紙を横へ置く。
《棚の右端:排気口から約一歩半》
その位置を見る。
ネジ穴はない。
固定金具の痕もない。
焦げもない。
好代はしばらく黙った。
「違いました?」
真意は壁を見る。
「この現存構造からは、棚を固定した痕跡を確認できません」
「じゃあ記憶が」
「そこまでは同じ文にしないでください」
好代は口を閉じた。
記憶の棚はまだ見える。
物理的な壁には痕跡がない。
二つは同時に存在していた。
夢幻が像を消そうとした時、好代がしゃがんだ。
外した巾木の奥。
白い粒がある。
ほんの少し。
「待ってください」
真意が採取袋を出す。
好代の指先にも一粒ついた。
白い。
記憶像のタイル目地も白かった。
胸が速くなる。
「これ、タイルの」
そこで止めた。
白いだけだった。
粒子の材質も年代も、まだ分からない。
「……分かりません。採ってください」
「採取します」
袋へ入る。
真意がラベルを書く。
《厨房壁面巾木内・白色粒子》
好代は覗き込む。
「記憶と一致、は?」
「白いことは一致しています」
「それだけ?」
「今は」
好代は少し笑った。
「少ないですね」
「増やすために調べます」
夢幻が像を消す。
二段棚が薄くなる。
銀色の容器。
紙袋。
焦げ。
青いタイル。
最後まで残ったのは、棚の角だった。
消える。
現在の壁だけになる。
壁を戻す。
営業再開。
昼のピーク。
好代はトレーを二枚持って壁の前を通る。
半歩よける。
「あ」
止まる暇はない。
次の注文が来る。
そのまま進む。
また通る。
また少し避ける。
記憶像はもう出ていない。
それでも身体は、棚の角を避け続けた。
夕方、好代は床へ細いテープを一本貼った。
棚があったと記録するためではない。
自分がどこで避けるかを見るためだった。
十回通る。
七回、テープの手前で肩が動いた。
三回は動かない。
《身体回避 7/10》
真意が記録する。
「棚の存在証拠になります?」
「なりません」
「私が避けてる証拠には?」
「なります」
好代は頷いた。
閉店後。
採取袋は保管棚へ入った。
《厨房壁面巾木内・白色粒子》
ラベルはそれだけ。
好代の紙も別に保管する。
《好代申告・厨房記憶配置》
同じファイルには入れなかった。
一方は壁から出たもの。
一方は自分から出たもの。
まだ、同じ由来だとは分からない。
帰る前、好代は壁の前を通った。
半歩よけた。
今度は直さなかった。
癖を信じたわけではない。
消す理由も、まだなかった。
翌朝、真意が言った。
「追加調査なら、今日できます」




