第33話「渋谷の路地」
「次、左です」
好代が言った。
摩天は止まった。
渋谷。
昼。
人の流れが二人の脇を割れていく。
左には、自販機。
赤い看板。
その間は壁だった。
「左はない」
「あります」
好代は答えてから、壁を見た。
「……あるはずです」
駅からここまで、地図を見ていない。
好代が先に歩いた。
一つ目の角。
横断歩道。
二つ目。
自販機。
赤い看板。
身体が迷わずここまで来た。
最後だけ、道が消えている。
「ここを入って、十五歩くらいです」
摩天は壁へ手を当てる。
「配管が裏を通ってる。抜け道じゃない」
「階段があります」
「今はない」
好代は目を閉じた。
壁の前なのに、足が続きを知っていた。
右足。
左。
狭いから肩を少し引く。
七歩目で室外機。
十三歩目で油の匂い。
十五歩。
そこから階段。
一段。
二段。
三段目は右側が欠けている。
足首が勝手に左へ逃げた。
好代は目を開ける。
壁。
「今、避けたな」
摩天が言った。
「はい」
「何をだ」
「三段目を」
自分で言って、気味が悪くなった。
郷愁を呼んだ。
郷愁は壁と好代を交互に見る。
「覚えてるの?」
「道順だけじゃなくて、足が」
「じゃあ、外へ出してみましょうか」
昼の光へ夕暮れが重なった。
壁が消えたわけではない。
その手前に、別の景色が透ける。
細い路地。
濡れた室外機。
古い排気。
好代は息を吸った。
「この匂いです」
雨上がりのコンクリート。
油。
奥に階段。
三段目。
右側が欠けている。
好代の足は、さっきと同じように左へ寄った。
「これです」
郷愁は好代の隣に立つ。
「あなたが戻れない記憶を、歩ける形にしてるだけよ」
「じゃあ、昔ここにあった?」
「そこまでは分からないわ」
摩天は路地へ入らない。
好代からは入口に立っているように見える。
けれど摩天の手は、現実の壁に触れたままだった。
「私が見る限り、現在の通路はない」
「摩天ちゃんには、これ見えないですか?」
「見えてる。だが地形としては使わない」
摩天は壁沿いに視線を走らせる。
配管。
建物の隙間。
非常口。
「裏へ回る。前へ出る」
数分後、摩天から連絡が来た。
《裏側に通路あり》
好代は郷愁の路地から出る。
夕暮れが薄れる。
三人で建物の裏へ回った。
摩天が先頭。
狭い現実の通路を迷わず抜ける。
配管を避ける。
非常階段の下をくぐる。
室外機の前で身体を半分にする。
「ここだ」
着いた先は駐車場だった。
好代は立ち止まる。
「階段の向こう側……だと思います」
「思う?」
「位置は、です。匂いも音も違います」
郷愁が聞く。
「もう一度重ねる?」
「お願いします」
駐車場へ夕暮れが落ちる。
アスファルトの上へ、古い階段が半透明に立つ。
車止めを壁が横切る。
現在と記憶が噛み合わない。
でも、階段の三段目の下。
現在の地面に、四角い補修跡があった。
好代はしゃがむ。
触る。
新しい舗装と古い舗装の境目。
「三段目の位置です」
言ってから、首を振った。
「……私の記憶で置いた三段目の位置、です」
摩天が地面を見る。
「補修跡はある」
「階段の?」
「知らん。今分かるのは補修した場所だ」
好代は端末を出した。
写真を撮る。
補修跡だけ。
記憶の階段を重ねた写真は撮らない。
メモ。
《現在:駐車場》
《四角い補修跡あり》
《記憶投影上の三段目付近》
最後の一行を書きかける。
《一致》
消した。
代わりに。
《位置関係の意味:未確認》
郷愁が夕暮れの路地を見る。
「残しておく?」
「これを?」
「帰りたくなった時、歩けるように」
好代は路地を見る。
自販機。
赤い看板。
濡れた室外機。
欠けた三段目。
知っている。
安心する。
今の渋谷より、身体には近い。
「今日は、いいです」
「消していい?」
好代は頷いた。
夕暮れがほどける。
階段が消える。
路地が消える。
駐車場へ戻る。
補修跡だけが残った。
帰りは摩天が見つけた現在の道を使った。
記憶の路地より遠い。
二回曲がる。
工事柵を避ける。
好代は途中で一度、曲がる必要のない場所を左へ曲がりかけた。
身体が先に動いた。
「あ」
摩天が振り返る。
「そっちは壁だ」
「はい」
好代は戻る。
少し歩く。
小さなパン屋があった。
焼いた小麦の匂い。
「こんなの、ありました?」
「今はある」
摩天が言う。
好代は店先を見た。
知らない。
匂いも知らない。
でも、今ここにある。
一つ買った。
ハンバーガーではない、小さな丸パン。
袋を持って現在の道を歩く。
翌朝。
厨房でトレーを抱えた好代は、何もない壁の前で半歩よけた。




