第32話「同じ声」
最初の違和感は、注文ではなかった。
会計を終えた客が言った。
「おいしかったです」
少し高い声だった。
次の客も言った。
「ごちそうさま」
低い声だったはずなのに、好代の耳には一人目と同じ高さで残った。
三人目。
「また来ます」
四人目。
「辛かったけど好き」
言葉は違う。
口も違う。
表情も違う。
でも、耳の奥へ残る声だけが同じだった。
好代はレジ画面から顔を上げた。
「……世籟ちゃん」
世籟が客席の端で振り向く。
「聞こえ方が変です」
「どんなふうに?」
「四人とも、同じ声で覚えてます」
世籟は答えず、店内へ耳を向けた。
冷蔵庫。
換気扇。
鉄板。
レジの電子音。
椅子。
足音。
歌はない。
それでも店には周期がある。
「残響が寄っています」
「世籟ちゃんが?」
「私のものかもしれません。まだ断定できません」
五人目がレジへ来た。
「すみません、紙袋ください」
好代は一枚取った。
その直後、六人目が横から言う。
「ストローも」
同じ声に聞こえた。
好代は五人目へストローを差し出した。
「え、私じゃないです」
「あ」
六人目が手を上げる。
「こっちです」
「すみません」
好代はストローを渡し直した。
小さな間違いだった。
でも、声の差が消えると、誰が言ったかまでずれる。
世籟が近づく。
「客席を一度、共鳴から外しましょうか」
好代はすぐには頷かなかった。
「外したら、今の声は消えます?」
「残響そのものは残ると思います」
「原因は?」
「強く合わせれば、どこから寄っているか追いやすくなります」
「合わせる方が、調べられる?」
「はい。ただし、差も薄くなります」
好代は客席を見る。
違う人たち。
違う注文。
違う顔。
声だけが一つへ寄っている。
残響を切って、原因が分からなくなるのが怖かった。
千姿化してから、消えるものを前より意識するようになった。
残せるなら残したい。
「短くなら、合わせられます?」
世籟が好代を見る。
「できます」
「原因が分かるところまで」
「途中で切ります」
好代は頷いた。
世籟が目を閉じる。
店内の音が、一度だけ同じ方角を向いた。
冷蔵庫の低音。
換気扇。
皿の触れる音。
靴底。
話し声。
全部が一つの拍へ近づく。
好代の心臓まで、隣の客の咳と同じ間隔になりかけた。
世籟が言う。
「もう少し追えます」
その時、子どもが笑った。
高いはずの笑い声が、好代の中で四人目の男の声と同じ高さへ落ちた。
好代は顔を上げる。
子どもはまだ笑っている。
でも、今の笑い声がどんな音だったのか、もう思い出せない。
「切ってください」
世籟の指が動いた。
CUT。
音が消えたのではない。
ほどけた。
冷蔵庫は冷蔵庫。
換気扇は換気扇。
皿。
咳。
靴。
子どもの笑い声。
それぞれの高さへ戻る。
次の客が言った。
「おいしかった」
低い。
その次。
「ちょっと辛かったです」
高い。
別の客。
「また来ます」
早口。
好代は一つずつ聞いた。
違う。
「戻りました」
世籟は少し間を置いた。
「今の音は」
好代は子どもを見る。
さっきの子どもが母親と話している。
今の声は高い。
「さっき笑った時の声、どんなでした?」
「……思い出せません」
CUT後の声は分かる。
CUT前の笑いだけが、他の声へ沈んでいる。
世籟が言う。
「切った後の差は戻っています」
「前のは?」
「残響から分離できるか、確かめます」
閉店後まで試した。
世籟が四人分の残響を別々に追う。
一人目の語尾。
二人目の息。
三人目の速さ。
断片は拾える。
でも好代が聞いた時の「それぞれの声」には戻らない。
記録へ書く。
《CUT後:個別差あり》
《CUT前:発話内容の一部回収》
《CUT前:好代の音声記憶、個別復元できず》
好代はペンを止めた。
「私が、合わせてくださいって言ったんですよね」
「はい」
「残したかったから」
「はい」
世籟は責めない。
好代も言い訳を探さなかった。
子どもの笑い声は消えてはいない。
世籟の残響にも断片がある。
本人も今日を覚えているかもしれない。
それでも、好代が一度聞いたあの声は、好代の中では戻らなかった。
「残ってるのに、戻らないんですね」
「残り方が変わったんだと思います」
好代は記録の下へ何か書きかけた。
《残すなら――》
止める。
線を引く。
今日一日だけで、残し方の規則を作るのはやめた。
世籟が帰る前、カウンターを指で二回叩いた。
とん。
とん。
好代も二回。
とん。
とん。
同じ回数。
世籟の音は細く、高い。
好代の音は少し鈍い。
好代は目を閉じて、二つを覚えようとした。
覚え方まで揃えないように。
翌日。
渋谷で好代は、存在しない路地を左へ曲がろうとした。




