第29話「残したい」
発注表から、一行が消えた。
火曜日。
世達が新しい表をクリップボードへ挟む。
来なくなった常連客のために余っていたソースは、先週一つ減らした。
今週は最初から、その数で発注されている。
だから、余りさえない。
「これで適正在庫です」
「はい」
好代は答えた。
正しい。
予約されていない人のために、毎週一個ずつ余らせる理由はない。
古い表を抜く。
新しい表を入れる。
それだけだった。
好代は古い紙の端を見た。
「これ、捨てます?」
世達が確認する。
「保管期限内なので、旧記録へ回します」
「期限が来たら?」
「通常どおり処分します」
「そうですよね」
紙を渡す。
手を離すのが、一瞬だけ遅れた。
十三時二十分。
窓際から二番目には、別の客がいた。
チーズを追加した。
飲み物はアイスティー。
好代は注文を取る。
席を片づける。
次の客が座る。
店は何も困らない。
それも正しい。
休憩に入ると、好代は旧記録を出した。
先週。
先々週。
その前。
三枚。
同じソースが一つ多い。
それだけ。
常連客の名前はない。
顔もない。
《十三時二十分》とも書いていない。
でも好代には、三枚の数字の横に、その人が座っていた時間が見える気がした。
摩天が通りかかる。
「何を探してる」
「来なくなった人がいた時の記録です」
「見つかったか」
「数字は」
好代は三枚を指す。
「でも、これだけ見ても、その人がいたって分からないです」
摩天は紙を見る。
「なら、紙にあるのは数字までだ」
「はい」
「ないものを足すな」
「……はい」
好代は紙を戻しかけた。
やめる。
もう一度だけ見る。
足さない。
でも、数字しかないことが嫌だった。
午後。
返却口で古いトレーを見つけた。
二十四話の一行。
《好きだったから、来た。》
まだある。
でも、薄い。
昨日より、ではない。
前に見た時より、確実に読みにくい。
好代は写真を撮った。
画面を拡大する。
肉眼より読めない。
もう一枚。
角度を変える。
光を変える。
《好きだったから》までは拾える。
最後が潰れる。
好代はスマートフォンを下ろした。
記録すれば残ると思っていた。
でも、記録の方が先に失うものもある。
指でなぞりかける。
止める。
擦れば、もっと消えるかもしれない。
「……消える」
能力も、声も、部屋も、あの道も消えた。
来ない人のための余りも、もうない。
好代は薄い文字を見た。
今日は、それで終わらせたくなかった。
厨房へ行く。
バーガーを見る。
保存する能力。
記録する能力。
記憶を読む能力。
何か食べれば、近いことができるかもしれない。
好代は手を伸ばさなかった。
どれを食べればいいか分からない。
それに、欲しいのは便利な能力ではなかった。
旧発注表を一枚持ってくる。
トレーも持ってくる。
片方には数字しかない。
片方の文字は消えかけている。
好代は二つの間に立った。
「残したい」
小さかった。
自分でも聞き返しそうになる。
もう一度。
「これ、残したいです」
誰かへの注文ではなかった。
能力名でもなかった。
正しい保存方法も知らない。
ただ、なくなってほしくなかった。
ぎゅるるるる。
好代は腹を押さえた。
「……え」
今日はまだ、PANDEMONIUMのバーガーを一個も食べていない。
ぎゅるるる。
二度目は、腹の中だけではなかった。
冷蔵庫の奥。
床下。
壁の向こう。
店全体が遠くで同じ音を返したように聞こえた。
摩天が厨房へ戻る。
「今の、何だ」
「分かりません」
好代は旧発注表を握っていた。
紙の角が指へ食い込む。
離そうとした時、細い線が見えた。
紙から棚。
棚からレジ。
レジから窓際の二番目。
一瞬。
消える。
「今、何か」
「見えました」
「何だ」
「線……だと思います。発注表から、席まで」
「いつもの能力か」
「今日は食べてないです」
摩天の顔が変わる。
「なら、触るな。私が前へ出る」
「待ってください」
好代はトレーを見る。
今度は、トレーから返却口へ線が走った。
返却口。
厨房。
文字が現れた場所。
それぞれを縫って、消える。
好代は動かなかった。
「危ないなら離れろ」
「はい。でも、あと一回だけ見ます」
「理由は」
好代はトレーを見る。
「残したいって言った後に始まったので」
「因果はまだ分からん」
「分かってます」
だから一回だけ。
旧発注表へ視線を戻す。
数字が滲んだ。
インクではない。
紙の奥へ沈んだように見える。
好代は反射的に手を離した。
三枚が床へ落ちる。
紙が床へ着くより先に、店が一秒だけ変わった。
十三時二十分。
窓際から二番目。
誰かの手。
ソースの袋を開ける音。
飲み物を置く位置。
袖の色。
顔は見えない。
名前もない。
好代が知らない部分は、埋まらなかった。
一秒で消える。
現在の床。
現在の紙。
好代はしゃがみ込んだ。
「……今の」
胸へ手を当てる。
「私の中に、あります?」
摩天が紙を拾う。
「私にはお前の中は見えん」
「そうですよね」
「確認するなら、外から確かめられる形にしろ」
好代は頷いた。
閉店まで、バーガーを食べなかった。
十三時二十分はもう過ぎている。
それでも窓際二番目を見ると、ソース袋を開ける音を思い出せた。
袖の色も。
顔は思い出せない。
最初から見えていない。
そこが少し安心した。
知らないものまで保存したことには、なっていない。
閉店後。
二十四話のトレーが洗浄へ回る。
好代は止めようと思えば止められた。
「これ、取っておきます?」
世達が聞く。
好代は薄い文字を見る。
保管することもできる。
でも、トレーは店で使うものだった。
「洗ってください」
水。
洗剤。
熱。
戻ってきたトレーには、何もない。
好代は持ち上げる。
軽い。
文字はない。
「好きだったから、来た」
口から出る。
一字も迷わない。
好代はトレーを通常の棚へ戻した。
保存したいから、物を全部止めるわけではなかった。
帰宅。
ノートを開く前に、白紙へ書く。
《好きだったから、来た。》
次。
《十三時二十分》
《窓際から二番目》
《袖:濃い青》
そこで止める。
顔は書かない。
名前も書かない。
知らないから。
最後に、旧発注表を見ずに三週間分の数字を書く。
ノートを閉じる。
照合は明日の朝にする。
ぎゅるるるは鳴らない。
好代は待った。
一分。
五分。
十分。
何も消えた感じはしない。
でも、それだけで永久だとは言えない。
ベッドへ入る前、好代は自分の手を見る。
今日は何も食べていない。
それなのに、何かが変わった。
何が変わったのかは、まだ分からない。
ただ一つだけ、昨日までと違うことがあった。
消えるものを見て、仕方がないとは思わなかった。
翌朝。
好代は昨日のノートを開かず、新しいページへペンを置いた。




