第27話「名前のない注文」
注文票に、商品名がなかった。
宛先もない。
金額もない。
ただ一行。
《届けてください》
至誠が票を光へ透かす。
「配送先がありません。商品欄も空欄です」
渾沌が横から覗く。
「じゃ、捨てちゃう?」
「廃棄指示もありません」
「どっちもできないの、面白いね」
好代は票を受け取らず、近づいて匂いを嗅いだ。
焼いた肉。
雨。
古い紙。
夕方。
知らない家の玄関を開けた時みたいな、湿った木の匂い。
「何か、あります」
摩天が顔を上げる。
「どこだ」
好代は厨房の奥を見る。
冷蔵庫。
壁。
その間。
人の肩も入らない隙間。
「そこ……だと思います」
摩天が先に立った。
「私が見る」
隙間へ手を入れない。
顔も近づけない。
一歩手前から、床と壁を見た。
「道だ」
「入れないですよ」
「今はな」
摩天が足を向ける。
床の継ぎ目が奥へ延びた。
冷蔵庫が左へずれたのではない。
壁が右へ動いたのでもない。
その間だけが、歩ける幅になった。
摩天が入る。
「私が前へ出る。行くぞ」
好代。
至誠。
渾沌。
黄昏。
五人目が入った時、厨房の音が急に遠くなった。
背後には白い蛍光灯。
前方には橙色の灯り。
床は厨房と同じ灰色なのに、歩くたび少し柔らかい。
靴底が沈む。
戻ると元に戻る。
摩天は迷わない。
曲がり角が増えても、最短の側へ足を出す。
「道は抜ける」
「出口まで分かります?」
「戻る方はな」
その答えだけで、好代の背中が少し軽くなった。
突き当たりに、白い箱があった。
配送箱くらいの大きさ。
持ち手なし。
ラベルなし。
封印もない。
至誠がしゃがむ。
指先を箱の上、一センチで止めた。
「正式な配送物として確定していません」
好代もしゃがむ。
「持てます?」
「物理的には可能です」
「届けられます?」
「届け先が確定すれば」
「今は?」
「配送としては運びません」
至誠は触れなかった。
渾沌が反対側から箱を見る。
「開けたら分かるかもよ?」
「中身が商品なら、開封で状態を変えます」
至誠。
「商品じゃなかったら?」
渾沌。
「その可能性もあります」
「じゃ、開けるまで分かんないね」
渾沌が指を立てる。
箱の角が一瞬だけ二つに見えた。
開いている箱。
閉じている箱。
好代が息を止める。
渾沌は指を下ろした。
二つは一つへ戻る。
「どっちかに寄せるのはできそう」
「どっちが正しいかは?」
「知らなーい」
「じゃあ、まだやめてください」
「はーい」
渾沌は笑って手を引いた。
黄昏が後ろを見る。
来た廊下の橙色が濃くなっている。
「ここ、終わり始めてる」
「あと何分です?」
「分では言えないな」
黄昏は壁へ耳を当てる。
「終わりが近づいてるのは分かる。閉じるところまで見ることもできる」
「止められます?」
「終わりを延ばすことはできると思う」
黄昏が箱を見る。
「でも、何のために延ばすかは決めてないよ」
好代は注文票を見る。
《届けてください》
誰に。
何を。
いつまで。
どこから。
一つも埋まらない。
その時。
箱の中で。
ことん。
五人とも動きを止めた。
もう一度。
ことん。
好代は箱へ耳を近づけかけた。
摩天の腕が前へ出る。
「距離を取れ」
好代は半歩戻った。
「中に誰かいます?」
返事はない。
ことん。
今度は、内側から底を叩いたように聞こえた。
助けを求めているのかもしれない。
荷物が転がっているだけかもしれない。
生き物かもしれない。
商品かもしれない。
箱そのものが鳴っているのかもしれない。
至誠が言う。
「届け先が判明すれば、私は運びます」
摩天。
「持ち帰るだけなら私がやる」
渾沌。
「中身を見たいなら、開く方へ寄せられるよ」
黄昏。
「時間が要るなら、終わりを待たせようか」
全部、できる。
好代は箱を見る。
誰も、失敗していない。
それでも、どれを頼めばいいのか分からない。
「持ち帰ったら」
好代は至誠を見る。
「届けたことになります?」
「なりません」
「助けたことには?」
至誠は答えない。
配送の話ではないからだ。
摩天が代わりに言う。
「中身が助けを求めてるならな」
「違ったら?」
「持ち出しただけだ」
箱がまた鳴る。
ことん。
今度は少し弱い。
好代の手に汗が出る。
急がなければ消えるかもしれない。
急いで持ち帰れば、取り返せないかもしれない。
黄昏が言う。
「好代。ここは長くないよ」
好代は注文票を箱の上へ置いた。
紙が白い蓋へ乗る。
「置いていきます」
摩天が好代を見る。
「箱をか」
「はい」
「消えるぞ」
「はい」
喉が乾く。
「でも、持ち帰る理由を、まだ持ってないです」
箱の中で音がする。
ことん。
好代は目を閉じなかった。
「あとで間違いだったって分かるかもしれません」
誰も答えない。
摩天が前へ向き直る。
「戻る。私が道を抜く。行くぞ」
至誠が最後尾へ回る。
渾沌は箱を一度だけ振り返る。
「まだあるよ」
黄昏も振り返る。
「今はね」
廊下が縮み始める。
床が硬くなる。
橙色が背中へ追いつく。
好代は走る。
摩天の背中。
厨房の白い光。
冷蔵庫のモーター音。
油の匂い。
最後の一歩を越える。
隙間が細くなる。
閉じる。
壁になる。
白い箱は見えない。
好代は両膝へ手を置いて息をする。
至誠が言う。
「全員戻りました」
好代は頷く。
手を見る。
注文票があった。
「あれ」
箱の上へ置いたはずだった。
至誠が確認する。
「私は受領していません」
「私も、持ってきてないです」
「事実として、現在はあなたが保持しています」
渾沌が笑う。
「票だけ帰ってきた」
摩天は閉じた壁を叩く。
「道はない」
黄昏が天井を見る。
厨房の照明は白い。
夕暮れは消えている。
好代は票を未処理注文の束へ入れかけた。
止める。
これは注文だったのか。
依頼だったのか。
誰かが書いたのか。
そこから分からない。
透明な袋を一枚出す。
票だけ入れる。
《未受領》
《未配送》
少し考える。
《依頼だった可能性あり》
《注文》とは書かなかった。
閉店。
シャッターが半分まで下りた時。
厨房の壁の向こうから。
ことん。
一度だけ。
好代は振り向いた。
壁は壁のままだった。
摩天も振り向く。
誰も開けなかった。
翌週。
十三時二十分になっても、いつもの客は来なかった。




