第25話「悲鳴蒸留所」
悲鳴は、瓶に入っていた。
少なくとも、好代にはそう見えた。
PANDEMONIUMの厨房奥から地下通路へ入る。
一つ目を右。
二つ目を左。
三つ目を右。
階段を下りる。
裸電球が一本。
左に蒸留器。
中央に長い作業台。
右壁に六段の棚。
奥に排水溝。
床は薄く濡れている。
棚には細長い瓶が並んでいた。
透明。
青。
茶色。
黒。
中身は液体に見える。
でも、前を通ると声がする。
「やだ」
二歩。
「ごめんなさい」
三歩。
「知らなかった」
奥。
「返して」
好代は入口から三歩目で止まった。
「ここ、店ですか?」
懺悔が首を傾げる。
「店に見える?」
「見えないです」
「じゃ、たぶん違う」
好代はもう一度、部屋を見る。
蒸留器の銅管から、水滴が一つ落ちる。
排水溝へ向かう細い流れに混じる。
甘い匂い。
その下に、吐いた後みたいな酸っぱさ。
懺悔が深く息を吸う。
「今日は濃いね」
「何がですか?」
「後悔」
好代には、ただ胸の奥がざらつく匂いだった。
中央の作業台に、一つだけ新しい瓶がある。
ラベルなし。
薄い灰色。
近づく。
「私が悪かった」
女の声。
好代が止まる。
「私が悪かった」
同じ声。
「私が悪かった」
三回目は少し掠れた。
「これ、誰のですか?」
「分かんない」
「懺悔ちゃんが持ってきたんですか?」
「ううん。来た時にはあった」
「いつから?」
「今日」
「誰が置いたかは?」
「見てない」
好代は瓶へ手を伸ばさない。
懺悔も触れない。
声だけが続く。
「私が悪かった」
懺悔が鼻を近づける。
「食べられる」
好代が見る。
「これを?」
「うん」
「食べたら、どうなります?」
懺悔は少し考える。
「軽くなると思う」
「瓶が?」
「持ってる人」
「その人、ここにいないですよね」
「いないね」
懺悔は瓶から顔を離した。
すぐ食べようとはしなかった。
好代はそこに少し安心する。
「どれくらい軽くなるんですか?」
「食べる量によると思う」
「全部食べたら?」
「全部なくなるかも」
「何が?」
懺悔は灰色の液体を見る。
「苦しいところ」
好代は答えず、右の棚へ行った。
空の瓶がいくつかある。
ラベルだけ残っていた。
《謝れなかった》
その隣。
《置いてきた》
もう一つ。
《助かった》
好代は最後の文字を読み直す。
「これ、食べた後ですか?」
「たぶん」
「どうなったんですか?」
懺悔が空瓶を指で弾く。
からん。
「楽になった人もいるよ」
「も?」
「覚えてるのに、自分のことじゃないみたいになった人もいる」
好代は振り返る。
「忘れたんじゃなくて?」
「忘れてない」
「でも、自分のことじゃない?」
「そう言ってた」
灰色の瓶から、また声。
「私が悪かった」
今度は、その言葉の意味が少し違って聞こえた。
苦しそうだから消したい。
でも、その苦しさが何に繋がっているのか、本人にしか分からないかもしれない。
好代は作業台へ戻る。
「懺悔ちゃん」
「ん?」
「全部食べられます?」
「たぶん」
「半分なら?」
「半分くらい軽くなるんじゃない?」
「一口なら?」
「一口ぶん?」
懺悔自身も確信していない。
好代は瓶を見る。
「本人が、全部なくしてほしいって言ったら?」
「食べていい?」
「たぶん。その時に、もう一回聞きたいです」
「どうして?」
「全部なくなった後で、戻してって言われても戻せるか分からないから」
懺悔は棚を見る。
空瓶。
《謝れなかった》
《置いてきた》
《助かった》
「戻せないと思う」
「じゃあ、今は食べないでください」
「うん」
返事は早かった。
声だけを小さくできないか試す。
厚い箱へ入れる。
「私が悪かった」
まだ聞こえる。
右棚の最下段へ置く。
「私が悪かった」
まだ聞こえる。
布を二重に巻く。
「……私が悪かった」
少し遠くなる。
好代は布をもう一枚持つ。
懺悔が聞く。
「もっと巻く?」
好代は止まる。
何のために小さくしているのか。
自分が聞きたくないからなら、それは瓶の中の人を軽くすることとは違う。
「やめます」
布を一枚戻す。
「うるさいです?」
懺悔が聞く。
「……聞いてると、つらいです」
「じゃ、食べる?」
「それは私が楽になるためですよね」
懺悔は少し考える。
「そうかも」
「なら、食べないでください」
瓶を作業台へ戻す。
でも、そのままでは誰かが触る。
好代は札を書く。
《本人不在》
一行。
《危険》とは書かない。
《治療》とも。
《保存》とも。
《食べない》とも書かない。
懺悔が覗く。
「食べない、じゃないの?」
「今は、です」
「本人が来たら?」
「本人が食べてほしいって言ったら、どこまで食べるか聞きます」
「全部って言ったら?」
好代は空瓶を見る。
《助かった》
その言葉だけでは、その人に何が残ったか分からない。
「全部食べた後に何がなくなるのかも、できるだけ先に話します」
懺悔が頷く。
「じゃ、待つ?」
「はい」
灰色の瓶を、右棚の三段目、左から四本目へ置く。
好代は位置を記録する。
《右棚/三段目/左4》
《灰色/無記名》
《本人不在》
懺悔が笑う。
「細かいね」
「次に来た時、なくなってたら困るので」
「誰が?」
好代は答えかける。
瓶の持ち主。
自分。
懺悔。
どれも少し違う。
「……分からないです」
階段へ向かう。
床を踏むたび、水が薄く鳴る。
裸電球。
中央の作業台。
左の蒸留器。
右の六段棚。
奥の排水溝。
好代は一度だけ振り返った。
灰色の瓶は三段目にある。
「私が悪かった」
声はまだ聞こえる。
階段を上がる。
一つ目の曲がり角で、声が小さくなる。
二つ目で、聞こえなくなる。
三つ目を曲がると、PANDEMONIUMの厨房音が戻った。
油。
鉄板。
注文ベル。
好代は息を吐く。
静かになった。
瓶が静かになったわけではない。
自分が離れただけだった。
翌日。
厨房で廃棄予定の赤い果実が、三つ並んでいた。
全部、右側に同じ傷があった。




