第24話「残った一行」
黒い糸は、昼まであった。
十四時過ぎ。
好代が厨房奥へ戻ると、透明カバーの下は空だった。
紙片もない。
糸もない。
埃の抜けだけが残っている。
好代は記録用紙へ書く。
《14:12 黒糸を確認できず》
《消失時刻:不明》
ペンを置こうとして、止まった。
その二行の下。
自分が書いていない文字がある。
《好きだったから、来た。》
好代は紙を持ち上げない。
顔を近づける。
インクの匂いはしない。
指で擦らない。
まず写真を撮る。
時刻。
十四時十八分。
もう一枚。
紙全体が入るように撮る。
「……誰が書いたんだろ」
厨房には人がいる。
でも、この紙はずっとカバー脇にあった。
自分の字ではない。
世達の字でもない。
誰かが書いたところも見ていない。
好代は横へ一つだけ書いた。
《14:18 発見》
十五分後。
注文ベルが鳴る。
好代は客席へ行く。
戻る。
一行がない。
《14:18 発見》だけが残っている。
写真を開く。
そこにはある。
《好きだったから、来た。》
好代は紙と画面を交互に見る。
「消えた」
言ってから、書き直す。
《14:33 原紙上で確認できず》
消えた瞬間は見ていない。
午後四時。
返却口にレシートが一枚落ちていた。
通常なら捨てる。
好代が拾う。
裏返す。
《好きだったから、来た。》
手が止まる。
文字の傾き。
句点。
写真と見比べる。
似ている。
同じにも見える。
「移った?」
口に出した瞬間、自分で首を振る。
最初の紙から抜けるところは見ていない。
レシートへ現れるところも見ていない。
《16:02 同文を別紙で確認》
《同一現象か:未確認》
レシートは捨てなかった。
でも保管庫にも入れない。
返却口脇へ透明トレーを一枚置き、その上へ戻した。
十七時十三分。
レシートは空白になっていた。
十七時二十一分。
客が返したトレーの敷紙に、一行があった。
《好きだったから、来た。》
そのトレーを使っていた客は、スマートフォンを見ながら帰っていくところだった。
好代は呼び止めかける。
やめた。
その人が書いた証拠はない。
代わりに、敷紙が通常どおり返却口へ入った時刻だけ記録する。
敷紙は汚れている。
ソース。
油。
パンくず。
通常なら廃棄する。
好代はゴミ箱の前で止まる。
残す理由はある。
捨てる理由もある。
一行だけを理由に、客の使用済み敷紙をずっと保管するのか。
「……一回だけ」
写真を撮る。
敷紙そのものは通常処理へ回した。
ゴミ箱の蓋が閉まる。
好代は少しだけ気になった。
捨てたからではない。
写真だけで同じものが残ったことになるのか、分からなかった。
閉店前。
十九話から残している未処理の四角を見る。
ボタンはまだある。
その外側。
透明テープの端に、小さな白い紙片が落ちていた。
《好きだったから、来た。》
好代はしゃがむ。
「また」
今度は触らない。
四角の中へ入れもしない。
秩序を呼ぶ。
秩序は紙片とボタンを見た。
「未処理領域へ追加しますか?」
「入れたら、二個になりますよね」
「はい」
「ボタンを出して、紙を入れるのは?」
「交換基準はありますか?」
好代は黙る。
先にあった。
長く残っている。
大きさ。
危険性。
情報量。
どれを基準にするか決めていない。
「ないです」
「では、順序を作らないでください」
秩序はそれ以上、紙片を分類しなかった。
好代は四角を広げない。
紙片の周囲へ、もう一つの囲いも作らない。
代わりに、床の目地と紙片の位置が一緒に入る写真を撮る。
《19:46 未処理領域外側で確認》
札は付けない。
名前も付けない。
閉店作業が進む。
ゴミ袋が交換される。
レジが締まる。
客席のトレーが洗浄へ回る。
床を掃く時間になる。
紙片の周囲だけ、箒を止めた。
「そこ、残しますか?」
「今夜だけ」
翌朝。
紙片はなかった。
ボタンは四角の中にある。
床の写真と見比べても、白い紙片だけがない。
好代は記録する。
《紙片:朝、確認できず》
それから開店準備へ戻る。
洗浄済みトレーを積む。
一枚。
二枚。
三枚。
四枚目で、指が止まる。
中央に薄い跡がある。
油ではない。
水滴でもない。
角度を変えると、文字の形になる。
《好きだったから、来た。》
好代は昨日の写真を開く。
同じ文。
同じに見える。
でも、同じものが移ったとは書かない。
《08:41 洗浄済みトレー上で同文確認》
その下。
《媒体間の連続性:未確認》
客席から注文ベルが鳴った。
好代はトレーを持ち上げかける。
止める。
今は客が先だった。
「はい、今行きます」
トレーをその場へ置く。
注文を取る。
水を出す。
商品を運ぶ。
戻った時も、一行はまだあった。
消えていない。
好代は少し安心した。
なぜ安心したのかは、記録しなかった。
トレーは通常の棚へ戻さず、洗い場脇の端へ置いた。
保管物にはしない。
廃棄もしない。
ただ、次にどうなるか見るために。
その日の閉店後。
好代は地下へ続く通路で、瓶の中から声を聞くことになる。




