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第23話「古すぎるにおい」


においが、古すぎた。


好代は厨房の奥で足を止めた。


古い木でも、古い紙でもない。


鼻へ入る前に、背中が冷える。


使っていない棚の下。


茶色い紙片が一枚、床と棚の隙間に挟まっていた。


端が丸く擦れている。


文字はない。


好代はしゃがむ。


手は出さない。


「……これ、昨日ありました?」


近くにいた幽玄が、棚の方を見る。


「昨日は気づかなかったわ」


「なかった、ではないんですね」


「見ていないものまでは言えません」


好代は少し笑う。


「それ、最近よく聞きます」


幽玄は紙片へ近づかない。


「近い方が寒い?」


「はい」


好代は立つ。


床のタイル一枚分、下がる。


寒さが薄れる。


もう一枚。


ほとんど消える。


戻る。


背中が冷える。


温度計を持ってくる。


棚の前。


二十二・四度。


二歩後ろ。


二十二・四度。


「温度は同じです」


幽玄が言う。


「寒いのは、あなた?」


好代はもう一度近づく。


「……今のところ、私です」


記録する。


《棚前:22.4℃/体感寒冷あり》


《二歩後方:22.4℃/体感ほぼなし》


《紙片との因果:未確認》


昼。


紙片はまだある。


客が厨房脇を通っても振り向かない。


世達が棚から備品を取っても何も言わない。


好代が近づく。


匂いが戻る。


乾いた土。


油。


焦げた甘さ。


十三話で嗅いだ古い痕跡に少し似ている。


でも、その奥に知らないものがある。


濡れた布。


灰。


花。


「混ざってます」


幽玄が聞く。


「何が?」


「知ってる匂いと、知らない匂い」


「どっちが古い?」


好代は答えかけて、止まる。


古く感じる。


それだけだ。


「分かりません。古い感じがするだけです」


好代は紙片へ顔を近づける。


棚の向こうに、誰かが立っていた。


黒い服。


細い肩。


顔は棚板の影に隠れている。


好代が振り向く。


誰もいない。


心臓が一度、大きく打つ。


「今、人がいました」


幽玄はすぐ棚の向こうを見ない。


「どこに?」


好代が指す。


「そこです」


「今も?」


見る。


「いません」


「なら、見えた時だけ残して」


好代はノートへ書く。


《12:36 棚向こうに人影を知覚》


《現在は確認できず》


《紙片との関係:未確認》


「幽霊とか、そういうのじゃないですか?」


好代が聞く。


幽玄は少し首を傾げた。


「そう呼ぶと、次から幽霊に見えるかもしれないわ」


「……じゃあ、やめます」


午後二時。


油を切る音の間に、声がした。


「まだ」


好代の手が止まる。


振り返る。


厨房には人がいる。


誰もこちらを見ていない。


「まだ」


二度目。


紙片の近く。


そう聞こえた。


好代はノートへ書く。


《紙から声》


ペン先を止める。


線を引く。


《14:03 紙片付近で「まだ」と聞いた》


《発声源:未確認》


幽玄が横から見る。


「聞こえたの?」


「はい。幽玄さんは?」


「私は聞いていません」


好代は少しだけ怖くなる。


一人にしか聞こえないものは、証人が増えない。


でも、一人にしか聞こえないから無かったことにもできない。


夕方。


紙片の端が少し浮いていた。


その下から、黒い糸が一本出ている。


細い。


髪より少し太い。


好代はピンセットを持ってくる。


挟めば、紙だけ取り出せる。


成分を調べられる。


付着物も見られる。


年代だって、何か方法があるかもしれない。


ピンセットの先を紙へ近づける。


止める。


二十二話では、客に必要なことだけ聞いた。


今回は、誰に必要なのか分からない。


紙の持ち主も分からない。


紙が誰かのものかさえ分からない。


「幽玄さん」


「なに?」


「これ、取った方がいいと思います?」


幽玄は答える前に聞いた。


「何のために?」


好代はピンセットを見る。


「調べるためです」


「誰のために?」


そこで答えがなくなった。


自分が知りたい。


それは本当だった。


「……私が知りたいからです」


幽玄は紙片を見る。


「それなら、取る理由にはなるわ」


好代は顔を上げる。


「いいんですか?」


「いいかどうかは別でしょう?」


静かな声だった。


好代は少し考える。


知りたい。


でも、知りたいだけで、持ち主不明のものを動かしていいかは分からない。


紙がここにあることで何かが保たれている可能性もある。


逆に、危険な可能性もある。


どちらも証拠がない。


「今日は、取りません」


ピンセットを戻した。


閉店後。


掃除が棚の前まで来る。


ここだけ残せば、汚れが残る。


全部掃けば、紙を動かす。


好代は棚の周囲を拭き、紙片の半径十センチだけ床を残した。


透明カバーを上から被せる。


床へ固定はしない。


紙にも触れない。


踏まないためのもの。


札を書く。


《所有者不明/採取せず》


《危険》とは書かない。


《資料》とも。


幽玄が札を見る。


「名前は付けないの?」


「付けられるほど分かってないです」


「そう」


「明日、なくなってたら困りますか?」


幽玄が聞く。


好代は紙片を見る。


困る。


調べられなくなるから。


でも、それだけだろうか。


「……分かりません」


翌朝。


透明カバーの下から、紙片だけが消えていた。


好代はしゃがむ。


床には、紙の形に埃が抜けている。


中央に黒い糸が一本。


昨日、紙の下にあったもの。


カバーは動いていない。


好代は触らない。


匂いを嗅ぐ。


何もない。


寒くない。


「まだ」


声もしない。


紙だけがなくなった。


黒い糸だけが残った。


好代は札を見る。


《所有者不明/採取せず》


紙がないなら、札も不要かもしれない。


手を伸ばす。


外しかける。


黒い糸を見る。


戻す。


札はそのままにした。


《紙片:朝、確認できず》


一行だけ追記する。


その日の午後。


同じ記録用紙に、好代のものではない一行が増える。


《好きだったから、来た。》

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