第21話「未食のにおい」
食べていない味で、目が覚めた。
甘い。
その奥が焦げている。
最後に柑橘の皮みたいな苦み。
好代は布団の中で舌を動かした。
昨日の夜は水しか飲んでいない。
昨日PANDEMONIUMで食べたのは、雨と油のにおいがしたバーガー。
これは違う。
起きる。
水を飲む。
まだある。
歯を磨く。
泡を吐く。
口をゆすぐ。
まだ分かる。
「……食べてないよね」
自分に聞いても、昨夜の記憶しか返ってこない。
店へ着く。
焦げた砂糖のにおいがした。
好代は厨房を見る。
違う。
客席の端。
夢幻が鏡の前に座っている。
テーブルには、小さな白い皿。
空だった。
「おはよお」
「夢幻さん、それ、何か乗ってました?」
夢幻が皿を見る。
「今はないねえ」
「甘くて、焦げてて、柑橘っぽいもの」
「好代ちゃん、食べた?」
「食べてないと思います」
「思う?」
「記憶では」
夢幻が鏡越しに笑う。
「じゃあ舌は?」
好代は少しむっとする。
「食べたって言ってます」
「喧嘩してるねえ」
皿へ近づく。
同じにおい。
焦げた砂糖。
柑橘。
好代は縁へ鼻を近づける。
「これです」
「空なのに?」
「空ですけど」
夢幻が指先で皿の縁を一周する。
口の中に食感が生まれた。
柔らかい。
表面だけ薄く焼けている。
舌へ砂糖の膜。
好代は反射的に一歩下がる。
「今、何しました?」
「似せてみた」
「何に?」
「好代ちゃんが今持ってる感じ」
「私が言ってない食感まで?」
夢幻は首を傾げる。
「鏡って、映ってるもの全部を説明してもらわないでしょう?」
答えになっているようで、機構の説明にはなっていない。
好代はそれ以上、能力の仕組みを決めなかった。
「もう一回できます?」
「できると思うよお」
「まだやらないでください」
「はあい」
先に、昨日の記録を確認する。
勤務中の摂食記録。
一件。
雨と油のバーガー。
廃棄記録。
焦げ砂糖と柑橘に一致する商品名はない。
監視記録。
好代がこの席へ座った映像はない。
閉店後の入店記録もない。
秩序にも確認してもらう。
「現在の記録では、あなたが該当物を摂取した事実を支持しません」
「食べてない、でいいですか?」
「そこまでは確定できません」
「記録がないから?」
「記録外の経路を排除できません」
好代は舌を上顎へ押しつける。
味はまだある。
「じゃあ、こっちも証拠ですよね」
「あなたが味覚を知覚している証拠にはなります」
「食べた証拠には?」
「なりません」
短い返事だった。
好代は少し嫌になる。
記録は食べたことを支持しない。
身体も食べたことを証明しない。
なのに、味だけは具体的だった。
焦げ具合まで分かる。
「再現、やってください」
夢幻が鏡から顔を上げる。
「比べる?」
「はい」
「どっちを本物にする?」
好代はすぐ答えた。
「どっちも本物って呼ばないでください」
夢幻が少し笑う。
「じゃ、似せるだけねえ」
白い皿へ指を置く。
匂いが立つ。
焦げた砂糖。
柑橘。
口の中へ柔らかな食感。
薄く焼けた表面。
好代は目を閉じる。
朝からあるものと、今つくられたもの。
似ている。
かなり。
舌だけなら、区別できないかもしれない。
でも朝の方には、台所の冷たい床があった。
水を飲んだ時のコップの縁。
歯磨き粉の泡。
「食べてないよね」と自分に聞いた声。
今の方には、鏡の前の夢幻がいる。
白い皿。
客席の椅子。
店の換気扇。
「違います」
夢幻が聞く。
「味?」
「味だけなら、分からないです」
「じゃあ何が違う?」
好代は朝の台所を思い出す。
「この味があった時に、周りにあったものです」
「それも似せる?」
好代は少し迷った。
朝の台所。
冷たい床。
コップ。
自分の声。
そこまで再現されたら、もっと比較できるかもしれない。
「……やめます」
「どうして?」
「似せるものを増やしたら、比べる方まで変わりそうなので」
夢幻は皿から指を離した。
味が薄れる。
「そっかあ」
好代はノートを開く。
《朝:未摂取のはずの味覚あり》
「未摂取」を見る。
線を引く。
《朝:摂取記憶・記録のない味覚あり》
次。
《夢幻による再現:味覚・食感は近似》
次。
《朝の経験と同一か:未確認》
「経験」まで書いて、少し考える。
朝に味を感じたこと自体は、経験した。
問題は、その味の由来だ。
一行足す。
《味覚の由来:未確認》
昼。
好代はまかないを食べた。
湯気が頬に当たる。
一口目は熱い。
二口目で、隣の厨房から皿のぶつかる音。
三口目に水を飲む。
味だけではない。
噛んだ。
飲み込んだ。
腹へ落ちた。
好代は時計を見る。
十二時四十六分。
ノートへ書こうとして、やめた。
今は食べている。
先に食べる。
食後。
夢幻が聞く。
「あとで、今のも似せてみる?」
好代は空になった皿を見る。
「味だけならできそうですか?」
「たぶんねえ」
「今日は、いらないです」
「比べないの?」
「今食べた方を、今日はそのままにしたいです」
返却口へ皿を置く。
その瞬間。
朝から舌の奥にあった焦げ砂糖の苦みが消えた。
好代は止まる。
柑橘もない。
口の中には、昼のまかないの味だけ。
夢幻を見る。
夢幻は鏡を見ている。
「今、消しました?」
「してないよお」
「分かりました」
それ以上は聞かない。
空だった白い皿を見る。
朝そこにあった皿も、もうない。
誰が下げたかは分からない。
好代は探さなかった。
《12:53 朝からの味覚、確認できず》
《消失原因:未確認》
そこまで書いて、ノートを閉じる。
午後のレジで、客が言った。
「おすすめ、決めてもらえますか」
好代には、その人が何を選びそうか、少し分かる気がした。




