第19話「一個だけ残す」
ボタンは、朝も同じ場所にあった。
裏口横。
昨日までドアだった壁の前。
黄色いテープの内側。
白い床に、黒い小さな丸。
好代は出勤して最初にそこを見た。
「……まだある」
拾わない。
昨日の写真を開く。
床の目地。
壁との距離。
ボタンの向き。
同じに見える。
メジャーを当てようとして、やめる。
当てるには近づける。
触れるかもしれない。
今は写真だけでいい。
九時二十分。
秩序が来た。
ボタンを見る。
壁を見る。
昨日の三枚の紙を見る。
《未確認》
《中のものを現在の記録へ混ぜない》
《残骸/由来未確定》
一枚目だけ少し斜めだった。
秩序は紙を剥がし、三枚を発生順に貼り直した。
端を揃える。
黄色いテープの浮きも押さえる。
好代が聞く。
「ボタンは?」
「まだ触りません」
「処理できます?」
秩序はしゃがまず、距離を残して見る。
「処理の意味を決めれば」
「捨てるとか?」
「それも一つです」
「他は?」
「落とし物として保管。制服部品として在庫へ統合。資料として封入。由来不明物として隔離」
「どれなんですか」
「現時点では決まりません」
好代は少し安心した。
秩序なら、すぐ一つに決めると思っていた。
「決めないままでもいいんですか」
「期限がなければ、判断は残せます」
「期限、あるんですか」
「確認します」
秩序は世達へ聞きに行った。
その間に、好代は開店準備へ戻る。
床を拭く。
裏口まで来る。
黄色いテープの手前でモップを止める。
昨日から、そこだけ汚れが残っている。
ボタンを守っているつもりで、床まで保存していた。
好代はバケツを見る。
「これ、嫌だな」
テープの外側を拭く。
内側は残る。
埃が境界に沿って薄く溜まる。
十時。
秩序が戻る。
「現行業務に処理期限は設定されていません」
「じゃあ、このまま?」
「このままにすると、清掃不能領域が増えます」
好代はさっきの埃を見る。
「ですよね」
残すことにも場所が要る。
何もしないことにも、店の床を使う。
秩序が透明な小箱を持ってくる。
「接触を最小化して移動しますか?」
「移動したら、昨日の場所じゃなくなります」
「はい」
「それで困ります?」
「位置が情報なら失われます」
「位置が情報か、分かります?」
「分かりません」
二人ともボタンを見る。
好代は昨日の部屋を思い出す。
紙袋。
制服。
穴の開いた修理板。
十一件残った注文表示。
全部消えた。
これだけ残った。
だから、位置にも意味がある気がする。
気がするだけだ。
「写真を残してから、動かすのは?」
好代が言う。
秩序はすぐ答えない。
「写真で位置情報の全ては残りません」
「でも床をずっと使うよりは?」
「損失を許容する判断になります」
「はい」
好代は少し考える。
「それにします」
写真を撮る。
上から。
壁を含めて斜めから。
床の目地が入るように横から。
時刻も写す。
秩序がピンセットを使う。
ボタンを持ち上げる。
その瞬間。
何も起きない。
音もしない。
昨日の部屋も戻らない。
床には、小さな丸い跡だけが残る。
透明な小箱へ入れる。
好代はモップを持ってくる。
昨日から残っていた床を拭く。
黒い跡も消える。
「消えましたね」
「床の汚れは」
秩序が言う。
ボタンは箱の中にある。
場所は写真に残った。
でも、昨日と同じではない。
それを選んだのは好代だった。
小箱をどこへ置くかで、また止まる。
落とし物棚。
制服備品棚。
異常物保管庫。
どれも名前が先に付く。
「棚に入れないで、一個だけ置く場所を作れませんか」
秩序が聞く。
「一個だけですか?」
「増えたら、その時また考えます」
「増設を前提にしない?」
「はい」
秩序は作業台の端を十五センチ空けた。
他の物を移す。
白いテープで小さな四角を作る。
棚番号は付けない。
分類名も付けない。
透明な小箱を中央へ置く。
札には一語だけ。
《未処理》
好代が見る。
「保留、じゃないんですね」
「保留は後で処理する前提を含みます」
「これは?」
「まだ決めていない、だけです」
好代は頷く。
「それがいいです」
秩序は四角の寸法を記録する。
「ただし、ここは一個分です」
「はい」
「二個目が来ても、自動では増やしません」
「その時に考えます」
秩序は少しだけ間を置いた。
「非効率です」
「嫌ですか?」
「嫌です」
即答だった。
好代は笑った。
「でも、やってくれるんですね」
「分類根拠がないものへ分類を付けるよりは、誤差が少ないです」
午後。
世達が保管表を確認する。
「《未処理》とは?」
秩序が説明する。
「所属、用途、処理期限を決定していない一件です」
「期限は?」
「ありません」
「担当は?」
「固定しません」
「処理予定は?」
「ありません」
世達のペンが止まる。
「では、何を管理しますか?」
好代が四角を見る。
「あること、だけじゃ駄目ですか」
世達が好代を見る。
「所在確認は必要です」
「じゃあ、毎日あるかだけ見る」
「誰が?」
好代は自分を指しかける。
止める。
自分が担当になれば、《好代の物》へ少し近づく気がした。
「開店確認の人が、ついでに」
世達は考える。
「個人担当なし。開店確認項目へ一件追加します」
「お願いします」
保管表の一番下。
《未処理:1》
その横に、棚番号ではなく。
《作業台端/白枠》
それだけが増えた。
夕方。
好代は何度か白枠を見た。
ボタンは透明な箱の中にある。
昨日より安全だ。
昨日より整理されている。
そして、昨日の場所にはもうない。
少しだけ惜しい。
でも床は使える。
清掃もできる。
店は動く。
残すために、周囲まで止めなくていい。
好代はそのことをノートには書かなかった。
閉店後。
白枠の横に、小さなトレーが置かれていた。
中に真鍮色の鍵。
紙札。
《用途不明の鍵》
好代は立ち止まる。
白枠を見る。
一個分。
鍵を見る。
二個目。
秩序を呼ぶ前に、好代は鍵を白枠へ入れなかった。
二つとも分からない。
それだけでは、同じ場所へ入れる理由にならなかった。
遠くから秩序の足音が近づく。
「二個目、来ました」




