第14話「ライ・ライ・ル」
最初に鳴ったのは、冷蔵庫だった。
ライ。
好代は顔を上げた。
二秒後。
換気扇。
ライ。
最後に、レジの読み取り音。
ル。
三つとも、普段はそんな音を出さない。
店内の客は気づいていない。
好代だけが、手にしていたトレーを止めた。
「……今の」
待つ。
冷蔵庫の圧縮機が回る。
普通の低い振動。
換気扇。
普通の風切り音。
レジ。
普通の電子音。
何も続かない。
好代は厨房奥の修理板を見る。
右下に付けた三つの小さな印。
○
○
○
真ん中だけ、昨日から少し右へずれている。
直していない。
十一時十七分。
もう一度。
ライ。
ライ。
ル。
今度は時刻を書く。
音源も。
《冷蔵庫》
《換気扇》
《レジ》
その下に、
《三つの印との関係:未確認》
と書いた。
午後。
世籟に来てもらう。
好代は先に自分の記録を見せなかった。
「何か聞こえるか、先に聞いてもらっていいですか」
世籟は頷く。
修理板の前ではなく、客席の中央へ立つ。
目を閉じる。
冷蔵庫。
換気扇。
時計。
空調。
配管。
客の椅子。
外の信号。
全部、違う間隔で鳴っている。
一分。
世籟が目を開けた。
「三つ、少し気になる残響があります」
好代の指がノートの上で止まる。
「三つ?」
「三つに聞こえます」
「同じ音ですか?」
「似ています。でも、同じとは言えません」
そこで初めて記録を見せる。
世籟は《ライ/ライ/ル》を見る。
「私は、少し違って聞こえます」
「なんて聞こえます?」
世籟は口を開きかける。
止める。
「先に重ねない方がよさそうです」
好代も頷く。
「私も、その方がいいと思います」
二人分の聞こえ方を、一つにしない。
それだけ決めた。
世籟が修理板を見る。
「少しだけ、近い音を探しますか?」
「どうやって?」
「私の声へ寄ってくる音があるか、見ます」
「寄せたら、音が変わりませんか」
「変わる可能性があります」
好代は考える。
何もしなければ、今の音のまま観測できる。
でも、何に反応しているのかは分からない。
少し干渉すれば、関係する音を拾えるかもしれない。
拾えた音が、元からそうだった保証は弱くなる。
「短くお願いします」
「はい」
好代は時計を出す。
「十秒で止めます」
世籟が小さく声を出す。
歌詞はない。
一音。
長く伸ばす。
店の音が消えたわけではない。
けれど、いくつかの音の間隔が少しずつ寄る。
冷蔵庫。
換気扇。
レジの待機音。
好代の心拍まで、ほんの少し引かれる。
三秒。
冷蔵庫。
ライ。
五秒。
換気扇。
ライ。
六秒。
レジ。
ル。
好代は息を止める。
外の信号が鳴る。
ライ。
遠くの電車が継ぎ目を踏む。
ライ。
配管が鳴る。
ル。
「増えました」
世籟は声を続けたまま、首を横へ振る。
好代は言い直す。
「増えたように聞こえます」
八秒。
店のあちこちが、短・短・長へ寄り始める。
好代の耳に、音ではないものまで浮かぶ。
何かを数える指。
紙袋を持つ腕。
空の箱が閉じる感触。
十三話の黒。
白。
赤茶。
つなげたくなる。
黒は数えるもの。
白は運ぶもの。
赤茶はなくすもの。
そう書けば、きれいだ。
九秒。
好代はノートを見る。
昨日、自分で付けた疑問符。
《黒:数える??》
《白:運ぶ??》
《赤茶:なくす??》
十秒になる前に、好代は言った。
「止めてください」
世籟が声を切る。
ただ、それだけだった。
特別な合図はない。
冷蔵庫は冷蔵庫の振動へ戻る。
換気扇は風を切る。
レジは電子音。
外の信号は外の信号。
好代の心臓も、自分の速さへ戻っていく。
時計。
九・四秒。
「十秒までやりませんでしたね」
世籟が言う。
「はい」
「何かありましたか?」
好代はノートを見る。
「分かった気がしてきました」
「それは、止める理由になりますか?」
「今回は」
好代は修理板を見る。
「分かった気がする速さの方が、音が増える速さより早かったので」
世籟は少し考える。
「私も、続けるほど近い音を拾いやすくなっていました」
「近い音が多いと、答えに近づきます?」
「場合によります」
「今回は?」
「私には、遠ざかる感じがします」
好代は笑う。
「同じです」
「同じ、ですか?」
好代は止まる。
世籟も少し笑った。
「似ている、にしておきましょう」
「はい」
記録へ戻る。
《11:17》
《冷蔵庫:ライ、と聞こえた》
《換気扇:ライ、と聞こえた》
《レジ:ル、と聞こえた》
《世籟さん:三つの残響を観測。聞こえ方は好代と一致せず》
《発声干渉 9.4秒》
《干渉中、類似した短・短・長の音が複数発生》
好代は最後の一行を書きかける。
《三つの古いにおいと関係》
消す。
代わりに、
《関係:未確認》
その下へ、
《干渉後に増えた音を、干渉前の証拠として扱わない》
と書いた。
世籟が横から読む。
「それなら、私の聞こえ方も書かない方がいいですか?」
「別に残せます?」
「はい」
「じゃあ別でお願いします。私のと混ぜないで」
世籟は自分の紙を一枚取る。
好代は見ない。
世籟も好代の《ライ・ライ・ル》を書き写さない。
同じ店で、同じ時間に聞いた。
でも、一枚にまとめなかった。
閉店後。
冷蔵庫が鳴った。
ライ。
好代は顔を上げる。
換気扇を見る。
鳴らない。
レジを見る。
鳴らない。
一音だけ。
昨日なら、続きを待ったかもしれない。
今日は照明を一つ消した。
次。
次。
最後に修理板の前。
三つの印はそのまま。
真ん中だけ、少し右。
好代は直さない。
店を出る。
翌朝。
仕事用のバーガーを四つ選ぶ前に、冷蔵庫の黄色い試作へ目が行った。
音の意味はまだ分からない。
でも、腹は減る。




