第13話「三つの古いにおい」
閉店後。
十二話で割れた壁には、新しい修理板が当たっていた。
新品の板だけ色が明るい。
その下を好代が雑巾で拭く。
一往復。
二往復。
三往復目で、手が止まった。
においがする。
修理に使った接着剤ではない。
焦げた配線でもない。
昨日、黒い塊が出てきた時にも気づかなかった。
好代は雑巾を床へ置く。
鼻を近づける。
一つ目。
乾いた紙。
金属。
削った鉛筆の芯。
少し離れる。
もう一度。
今度は違う。
濡れた布。
雨。
長く持っていた紙袋の取っ手みたいな、手の温度。
さらに端。
甘い。
でも食べ物の甘さではない。
焦げた砂糖。
陶器の粉。
蓋を開けたままの空箱。
好代は立ち上がった。
三つ。
そう思った。
すぐノートへ書きかけて、止める。
《三種類》
「……種類かは、まだ分からないですね」
消す。
《三か所で、違うにおい》
に直した。
修理板は外さない。
昨日、残したかったものを守るために付けた板だ。
古いにおいがするからといって、また壊す理由にはならない。
好代は細い検査紙を持ってくる。
板と床の隙間へ、一センチだけ入れる。
右。
中央。
左。
引き抜く。
紙の先に粉が付いていた。
黒。
白。
赤茶。
三色。
ここでも三つ。
好代は別々の小袋へ入れる。
ラベルには色と採取位置だけを書く。
《黒/右》
《白/中央》
《赤茶/左》
意味は書かない。
黒い粉を袋へ落とした瞬間。
指先に数字が浮かんだ。
《3》
好代は手を振らない。
見る。
三秒ほどで消えた。
「三……」
ノートへ、
《接触時、3に見える像》
とだけ書く。
《三つある》とは書かない。
白い粉。
袋へ入れようとして触れた。
右腕が急に重くなる。
何かを提げている。
見えない。
でも指が痛い。
紙袋の細い取っ手が食い込んでいるような感覚。
下ろしたくなる。
同時に、下ろしてはいけない気もする。
誰かへ渡すまで。
そこまで思って、好代は袋を置いた。
腕は軽くなる。
《接触時、右手に荷重感》
少し迷う。
《「渡すまで下ろせない」と感じた》
その下へ、
《誰の感覚か/実際の記憶か:不明》
赤茶。
触れた瞬間、好代は息を呑んだ。
手の中から何かが消えた。
反射的に握る。
何も持っていなかった。
それでも、失くした。
胸の下が冷える。
ポケットを見る。
鍵。
端末。
ペン。
全部ある。
「……嫌だな、これ」
ノートへ、
《接触時、喪失感》
と書く。
《何を失った感覚か:不明》
三つの袋を並べる。
食べていない。
だから、少なくとも今日食べたバーガー由来の一時能力とは条件が違う。
それ以上は決めない。
翌朝。
黒い袋に文字があった。
《三》
好代の字ではない。
写真を撮る。
昨日の写真と比べる。
昨日は無地。
「増えてます」
誰に言うでもなく呟く。
白い袋は保管棚にない。
探す。
カウンターの端。
持ち帰り用の紙袋の隣に置かれている。
監視記録を確認する。
映像では、午前三時十四分まで棚にある。
三時十五分。
一フレームだけ画面が乱れる。
次のフレームで、ない。
カウンター側の映像も同じ時刻に乱れている。
次のフレームで、ある。
移動途中は映っていない。
「運んだ、とはまだ書けないですね」
《保管棚→カウンター。移動過程未観測》
赤茶の袋はない。
棚にも。
床にも。
カウンターにも。
好代は昨日のラベル位置を見る。
空白。
「なくなった……」
言ってから止まる。
棚の下に赤茶色の欠片が一つある。
袋そのものはない。
中身もほとんどない。
でも、ゼロではない。
好代はしゃがむ。
拾わない。
十一話で、見ることも近づくことも相手を変え得ると知った。
昨日は触れて、喪失感が起きた。
今日は、まず触れない。
欠片の位置を床の目地から測る。
写真。
時刻。
《赤茶袋:所在不明》
《欠片一個:棚下》
《消失とは断定しない》
三日間、好代は触らなかった。
黒い袋の数字だけが変わる。
《3》
翌日。
《7》
その翌日。
《0》
次。
《11》
好代は数字を写す。
意味は付けない。
白い袋は、朝ごとに場所が違う。
厨房の受け渡し口。
入口脇。
裏口の台。
保管棚。
移動する瞬間は一度も記録できない。
置かれる場所には共通点があるように見える。
何かが通る場所。
何かを渡す場所。
でも、そうでない場所にも一度あった。
好代は《運ぶ》と書きかけて、横線を引く。
《移動先に傾向あり?》
赤茶の欠片は減った。
一日目、一個。
二日目、半分ほど。
三日目、粉だけ。
四日目。
見えなくなった。
好代は床を拭かなかった。
先に写真を撮る。
照明角度を変える。
紙を下へ入れる。
赤茶色は付かない。
それでも、
《消失》
とは書かなかった。
《肉眼・採取で確認できず》
と書く。
その日の閉店後。
修理板の前へ座る。
においは薄くなっていた。
右。
乾いた紙。
中央。
雨。
左。
焦げた砂糖。
三つの袋は、もう揃っていない。
観測結果も揃っていない。
好代はノートを開く。
最初のページには、消した跡がある。
《三種類》
その上から書き直した、
《三か所で、違うにおい》
次のページ。
黒。
数字。
白。
位置。
赤茶。
喪失感と、欠片。
並べれば、役割みたいに見える。
数えるもの。
運ぶもの。
なくすもの。
好代は三行書いた。
《黒:数える?》
《白:運ぶ?》
《赤茶:なくす?》
しばらく見る。
疑問符を一つずつ増やした。
《黒:数える??》
《白:運ぶ??》
《赤茶:なくす??》
さらに下。
《三つが別々のものかも未確認》
それで閉じる。
「前からいたんですか」
修理板へ聞く。
返事はない。
「私より?」
返事はない。
でも、においだけは初めて嗅いだ感じがしなかった。
好代はその感覚を、ノートへ書こうとする。
《懐かしい》
ペン先が止まる。
三話で、初めてPANDEMONIUMのバーガーを食べた時にも使った言葉だ。
同じ言葉にすると、同じ理由だったことにしてしまいそうだった。
消す。
《初めて嗅いだ感じがしない》
と書く。
板は外さない。
粉も探さない。
代わりに、修理板の右下へ小さな印を三つ付けた。
○
○
○
名前の代わりではない。
意味の代わりでもない。
明日、位置が変わったか分かるようにするための印。
照明を消す。
翌朝。
三つのうち、真ん中だけが少し右へずれていた。
好代は指を伸ばす。
直せば、三つとも同じ間隔に戻る。
触れる直前で止めた。
「……このまま見ます」
直さない。
その日の午前。
冷蔵庫が、聞いたことのない短い音を出した。
ライ。




