第12話「使わない方が早い」
こん。
好代は振り向いた。
厨房の奥。
昨日まで何もなかった壁が、中央だけ少し膨らんでいる。
もう一度。
こん。
今度は内側からだった。
「離れろ」
瑠志の声。
好代が二歩下がる。
壁が割れた。
石膏の粉が噴く。
棚の上の紙カップが倒れる。
割れ目から、黒いものが押し出されてきた。
肉にも見える。
濡れた鉄にも見える。
表面に紙が貼りついている。
《持ち帰り》
《急ぎ》
《まだですか》
《違います》
注文票だった。
黒い塊が床へ落ちる。
重い音。
這う。
棚の脚へ触れた。
金属が内側へ折れた。
瑠志が前へ出る。
「殴れます?」
「殴れる」
「終わります?」
「これだけなら」
瑠志は割れた壁の奥を見る。
「でも後ろが在庫庫だ」
好代も覗く。
黒い塊の向こうに、保管棚の端が見える。
昨日確認した材料。
期限の近いソース。
包み紙。
補充前の箱。
「殴ったら?」
「まとめて壊す可能性がある」
「……じゃあ、今はやめてください」
「分かった」
瑠志は拳を下げる。
一撃で終わらせられる人が、一撃を使わない。
塊が弱いからではない。
後ろに残したいものがあるからだった。
好代は今日、二個食べている。
一つは厨房の動線。
もう一つは、物と物の境目が見えやすくなるもの。
黒い塊を見る。
線が多い。
壁材。
注文票。
棚。
箱。
配管。
巻き込んだもの同士の境目が、薄く光って見える。
「右上、線があります」
「何との境目」
「壁と配管です」
「切れば?」
好代は目で追う。
「配管側まで行きそうです」
「じゃないな」
下。
「床との間にも」
「その下、冷蔵管」
「駄目ですね」
黒い塊が縮む。
次の瞬間、跳ねた。
好代の方へ。
「下がれ」
瑠志が前へ入る。
好代は反射的に後ろへ飛ぶ。
黒い塊が作業台へぶつかる。
天板が歪む。
瑠志は殴らない。
身体で好代との間を塞いだまま、塊を見る。
「大丈夫か」
「はい」
好代は床へ手をついて起きる。
「今なら殴った方が早いですよね」
「早い」
「でも在庫も?」
「位置が悪い」
好代は息を整える。
速い答えが、欲しい答えとは限らない。
その時、新しい注文票が厨房のプリンタから吐き出された。
一枚。
床へ落ちる前に、黒い塊の表面へ吸いついた。
塊が膨らむ。
好代は見る。
「今、大きくなりました」
「紙か?」
「たぶん」
もう一枚出る。
吸いつく。
また膨らむ。
好代は十一話の窓際の客を思い出した。
自分が近づくたび、見えていた次の動きが変わった。
目の前のものも、こちらの行動で変わっている。
なら、塊だけ見続けても足りない。
「注文票、止めます」
「確かめるか?」
「はい。一回止めて、増え方を見ます」
好代は厨房へ走る。
「紙の出力、止めてください!」
「注文は!?」
「画面と口頭で残してください。紙だけ止めます!」
プリンタが止まる。
黒い塊は動く。
止まってはいない。
でも、一分待っても膨らまない。
好代は時刻を書く。
《紙出力停止 14:08》
《停止後一分、体積増加を目視確認できず》
「紙が原因ですか?」
瑠志が聞く。
「増える条件の一つかもしれません」
「十分だ。増やすな」
塊の表面には、何十枚もの注文票が重なっている。
好代には紙と黒い表面の境目が見える。
「剥がせるかもしれません」
「触るな」
瑠志が即答する。
好代の手が止まる。
「危ないですか」
「分からない。分からないものへ素手で行くな」
好代は頷く。
トングを取る。
長いもの。
一番外側の注文票を挟む。
引く。
紙が裂ける。
黒い塊が震えた。
好代は止める。
「今、反応しました」
「続けるか?」
「一枚だけ、最後まで取ります」
少しずつ。
裂けた紙を残さないよう、端を持ち直す。
剥がれた。
黒い塊が、ほんの少し小さくなる。
「減りました」
「なら候補にはなる」
「全部やります?」
瑠志は在庫庫を見る。
「他に早い方法が見つかるまでな」
好代は二枚目へ行く。
十枚。
二十枚。
紙を剥がすたび、黒い塊は少しずつ縮む。
簡単ではない。
途中で塊が跳ねる。
好代は下がる。
瑠志が進路へ入り、好代が距離を取る時間を作る。
塊が止まれば、またトングを伸ばす。
殴れば一瞬だった。
殴らないので、時間がかかる。
十七分。
好代の腹が鳴った。
ぎゅるるる。
境目の光が薄くなる。
「まずい」
「何分」
「分かりません。消え始めてます」
残りの注文票は九枚。
ここで追加のバーガーを食べれば、境目を見る時間を延ばせる。
でも胃には朝から二個入っている。
まだ余裕はある。
好代は冷蔵庫を見る。
昨日、自分で《食べたい》に丸をつけた新作も残っている。
仕事用を追加すれば、今日の三個目になる。
食べられる。
ただし、それは《能力が切れそうだから反射的に補充する》選択でもある。
好代は残り九枚を見る。
もう境目の位置は分かっている。
一枚目から同じ場所だった。
「追加、しません」
瑠志が好代を見る。
「見えなくなるぞ」
「見えなくなる前に、位置を覚えます」
好代は紙へ簡単な図を描く。
トングの角度。
引く方向。
紙の重なり。
能力が完全に消える。
普通の黒い塊になる。
「続けます」
三枚。
境目は見えない。
一枚、途中で破れた。
時間を取る。
四枚。
五枚。
好代の手が汗で滑る。
瑠志が言う。
「交代するか」
好代はトングを見る。
「お願いします。角度、ここです」
瑠志が受け取る。
「これか」
「はい。引くのは床と平行に近く」
瑠志は一枚剥がす。
好代より速い。
でも、力任せには引かない。
二枚。
三枚。
最後の一枚が取れる。
黒い塊が沈んだ。
壁材。
折れた棚。
潰れた箱。
焦げた紙。
混ざっていたものが床へ崩れる。
時計を見る。
十四時三十五分。
二十七分。
在庫庫は残っている。
全部ではない。
入口近くの箱は潰れていた。
配管も一本曲がっている。
最初に棚が倒れた時の破損もある。
奥の材料は無事だった。
好代は床へ座る。
腕が疲れている。
「殴った方が早かったですね」
「早い」
「追加で食べた方も、たぶん早かったです」
「そうかもな」
「じゃあ、遅い方ばっかり選びました」
瑠志は残った在庫を見る。
「何を終わらせたかった?」
「これを止めることです」
「それだけなら殴ればいい」
好代は潰れた箱と、残った棚を見る。
「……人と、在庫を残して止めたかったです」
「なら、それが目的だ」
閉店後。
割れた壁へ大きな修理板が当てられた。
新品の壁には戻さない。
今日中にできるのは、穴を塞いで安全を確認するところまでだった。
好代は確認表を書く。
《紙出力停止 14:08》
《解体完了 14:35》
《二十七分》
《在庫 一部損傷/大半維持》
《負傷者なし》
少し考える。
《最速ではない》
瑠志が横から見る。
「それ、何の記録だ」
「反省……じゃなくて、比較です」
「何と」
「一発で壊すのと」
「目的が違うなら比較にならない」
好代はペンを止める。
《最速ではない》に線を引く。
その下へ書く。
《残したかったもの 在庫》
もう一行。
《人》
さらに迷って、
《壁は残らなかった》
と足した。
全部を残せたわけではない。
瑠志が読む。
「それでいい」
好代は修理板を見る。
昨日までなかった板。
守れたものの証拠でもある。
壊れたものの証拠でもある。
片づけのため、好代が床へ雑巾を置く。
板の下を一度拭く。
二度目。
鼻が止まった。
知らないにおいがした。




