第11話「見られると変わる」
「昨日も来ていましたわ」
妄執が小さく言った。
好代は入口を見る。
帽子を深くかぶった男が、一人で窓際へ座る。
水だけ取った。
メニューは開かない。
「昨日だけですか?」
「いいえ。今日で十二回目ですわ」
「十二回」
「最初はチーズ抜きを頼みましたの。次は水だけ。入口まで来て帰った日もありましたわね」
妄執はそこで止める。
好代は男を見る。
男もこちらを見た。
目が合う。
すぐ、男の方が逸らした。
好代も厨房へ視線を戻す。
今日は一個だけ食べている。
客の動きが、ほんの少し先まで続いて見えるバーガー。
人の身体の前に、薄い残像が出る。
立つ。
手を伸ばす。
トレーを持つ。
数秒先まで。
仕事には便利だった。
子どもがコップを倒す前に布巾を寄せられる。
客が立つ前に通路を空けられる。
呼ばれる前に近くへ行ける。
窓際の男の右手に残像が出た。
コップへ伸びる。
持つ。
口へ運ぶ。
好代は水をこぼすかもしれないと思い、反射的に一歩近づいた。
男の手が止まる。
残像だけがコップを持ち上げ、消えた。
実際の手は膝へ戻る。
好代も止まった。
「……違った」
妄執が横へ来る。
「何がですの?」
「今、水を飲むように見えました」
「飲みませんでしたわね」
「私が近づいたからでしょうか」
妄執は男を見る。
好代はすぐ言う。
「見ない方がいいですか」
「私が見ない方がいいのか、あなたが近づかない方がいいのか、まだ分かりませんわ」
好代は頷く。
一つずつ変える。
まず、距離を取る。
男を視界の端に置く。
残像がコップへ伸びる。
好代は動かない。
男はコップを取った。
一口飲む。
置く。
今度は一致した。
好代は時刻を書く。
《距離あり/介入なし/一致》
次。
男の残像がメニューへ伸びる。
好代は動かない。
実際の手も伸びる。
メニューの角に触れる。
そこで男が好代を見る。
好代は見返していた。
手が止まる。
メニューを伏せる。
《距離あり/視線一致後、変化》
好代はペンを止めた。
「私、見すぎてますね」
妄執が少し笑う。
「お仕事ですもの。見ること自体が悪いとは思いませんわ」
「でも、見た結果を確かめようとすると、変わります」
「人なら、そういうこともありますわね」
能力の説明ではなかった。
店員が客を見る。
客も店員を見る。
それだけで、次の行動は変わる。
好代は男のところへ行った。
今度は先回りではない。
テーブルから一歩離れた場所で止まる。
「すみません」
男が顔を上げる。
「私、さっきから見すぎてましたか」
少し長い沈黙。
「……見られてる気はした」
「すみません。必要な時だけ呼んでください」
好代は頭を下げて離れた。
戻る途中、残像が見える。
男が立つ。
出口へ行く。
好代は見えたものをノートへ書かない。
厨房へ戻る。
「先に分かるなら、先に動いた方が便利だと思ってました」
妄執がノートを閉じる。
「便利な時もあるでしょうね」
「でも、相手が人だと、私が先に動いたことも次の条件になります」
「ええ」
「じゃあ、見えた未来は間違いなんですか」
妄執は首を傾げる。
「未来、と決めてよろしいんですの?」
好代は止まる。
残像。
数秒先。
今までそう呼んでいただけだ。
「……先に見えた動き、にします」
「その方が、今は扱いやすそうですわね」
「妄執さんは、この人のこと十二回来たって覚えてるんですよね」
「覚えていますわ」
「ずっと同じ人ですか?」
妄執は窓際を見る。
「同じ方として記録していますわ。でも、毎回同じことをする方ではありませんの」
「記録してたら、分かるようになります?」
「分かることは増えますわ」
「次に何をするかも?」
「それは別でしょうね」
好代は少し安心した。
覚えていることと、次を決められることは別だった。
十分後。
男が立った。
好代には、先に見えた動きがある。
出口。
三歩。
扉。
帰る。
好代は動かない。
男は一歩。
二歩。
三歩目で止まる。
カウンターを見る。
好代の中で、先に見えていた出口までの動きが消える。
別の残像が出る。
カウンターへ戻る。
好代はそれも追わない。
男はしばらく立ったまま、メニューを見る。
それから本当にカウンターへ来た。
「持ち帰り、できますか」
「できます」
「じゃあ、一つ」
好代は反射的におすすめを言いかける。
止める。
「メニュー、こちらです」
男が見る。
好代には、指が一つの商品へ伸びる残像が見える。
口を出さない。
男の指は途中で別の商品へ移った。
「これ」
「はい」
好代は注文を通す。
男が自分で選んだものだった。
会計後。
妄執がノートへ一行足す。
「十二回目。初めて持ち帰りを注文」
好代は男の紙袋を見る。
「私が見ないようにしたから、注文したんでしょうか」
「分かりませんわ」
「十二回見てても?」
「十二回分を覚えていることと、十三回目の理由を持っていることは別ですもの」
好代はその言葉を少し考える。
男が出口へ向かう。
紙袋を右手から左手へ持ち替える残像。
実際には右手のまま。
扉を出る。
好代の腹が鳴った。
ぎゅるるる。
残像が薄くなる。
店の外。
男が立ち止まった。
好代にはもう、その次が見えない。
それでも目では追える。
男は紙袋を一度胸の高さまで持ち上げ、底を確かめた。
それから歩き出した。
好代はノートを開く。
《十二回目:持ち帰り注文》
そこまで書く。
《見なかったので注文した》
とは書かない。
能力が消えたあとにも、同じことができた。
閉店前。
好代は客席の端に落ちた紙ナプキンを拾う。
先に落ちるところは見えなかった。
普通に見つけた。
そのまま厨房へ戻ろうとして、奥の壁から小さな音を聞く。
こん。
好代が振り向く。
もう一度。
こん。
壁の中央が、わずかに前へ膨らんだ。




