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冥花の婚約者~死んだはずのあなたを、私は香りで連れ戻した~  作者: 硝子細工の森


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6

最終話


 春の雨が降っていた。


 静かな午後だった。


 王城の窓を伝う雫を見ながら、クノエは小さく息を吐く。


「……平和ですね」


「そうだな」


 向かい側で、シオンが書類をめくっていた。


 以前より少し痩せた気がする。


 けれど顔色は戻った。


 あの、壊れそうだった頃よりずっと。


 最近のシオンは忙しい。


 ユリが残した問題が山ほどあったからだ。


 精神干渉を受けていた貴族。


 金の流れ。


 違法魔術。


 彼女に心酔していた者たちの処分。


 王城は大混乱だった。


 それでも。


 シオンは逃げなかった。


 全部、自分で片付けようとしていた。


 たぶん罪悪感もある。


 自分が見抜けなかったから、と。


 でもクノエは思う。


 それだけじゃない。


 彼は元々、そういう人なのだ。


 苦しくても投げ出せない。


 誰かが泣いていると放っておけない。


 優しくて、不器用。


 だから壊れた。


 だから戻ってこられた。


「……殿下」


「ん?」


「少し休んでください」


 シオンは苦笑する。


「クノエは最近、そればかりだな」


「だって本当に働きすぎです」


「王になる前に片付けたいんだ」


 その言葉に、クノエは少し黙る。


 シオンは気づいて、視線を上げた。


「……怖いか?」


「え?」


「王妃になるの」


 クノエは瞬いた。


 それから、少し困ったように笑う。


「実はまだ、あまり実感なくて」


「はは……お前らしい」


 穏やかな空気だった。


 前みたいに。


 いや、前よりもっと。


 失って、戻ってきたからこその静けさ。


 シオンはペンを置いた。


「クノエ」


「はい?」


「こっち来い」


「えっ」


 クノエが戸惑う。


「……またですか?」


「まただ」


 最近のシオンは距離が近い。


 やたら抱き締める。


 手も繋ぐ。


 視線も甘い。


 前はもっと理性的だったのに、最近は妙に素直だ。


 クノエが近づくと、シオンは当然みたいに彼女の腰を引き寄せた。


「きゃっ」


「……落ち着く」


 肩口に顔を埋められる。


 甘い香り。


 安心する匂い。


 シオンは目を閉じた。


「殿下、犬みたいです」


「否定できない」


 低く笑う声が響く。


 クノエの顔が赤くなる。


 こんな風に笑う彼を見るたび、胸がぎゅっとなる。


 生きてる。


 本当に。


「……好きです」


 ぽろっと零れた。


 クノエ自身が一番驚く。


「っ」


 顔が真っ赤になる。


「ち、違っ、今の……!」


 だがシオンは固まっていた。


 数秒。


 完全停止。


「……殿下?」


「いや待て」


 シオンが真顔で言う。


「今のは心臓に悪い」


「えぇ……」


「そんな不意打ちあるか?」


 クノエは恥ずかしくて俯く。


 だが次の瞬間。


 頬に手が添えられた。


「クノエ」


 優しい声。


 見上げると、青い瞳が真っ直ぐこちらを見ていた。


「私も好きだ」


 心臓が止まりそうになる。


「ずっと」


 クノエの目に涙が滲む。


 シオンは微笑んだ。


「……今度は絶対、間違えない」


     ◇


 ユリは国外追放になった。


 処刑ではない。


 シオンが止めたからだ。


『死んで終わりでは軽すぎる』


 その言葉通りだった。


 彼女は全てを失った。


 地位も。


 金も。


 美しい服も。


 男たちの視線も。


 誰ももう、彼女を特別扱いしない。


 護送馬車の中で、ユリは窓の外を見ていた。


 雨だった。


「……最悪」


 掠れた声で呟く。


 惨めだった。


 みっともない。


 でも。


 最後に王城を出る時、少しだけ見えてしまったのだ。


 シオンとクノエが並ぶ姿を。


 自然に寄り添って。


 穏やかに笑って。


 そこには、自分が絶対に入れない空気があった。


「……なんなのよ」


 涙が落ちる。


「なんであいつばっか愛されるの」


 答える人はいない。


 ユリは理解できなかった。


 最後まで。


 身体で繋ぐことと、心で繋がることの違いを。


     ◇


「冥香は、“未練を導く香り”なのです」


 老魔導師はそう言った。


「魂は、本来帰りたい場所へ惹かれる」


 クノエの香りは、それを思い出させる。


 安心。


 愛情。


 温もり。


 帰りたいと思う感情。


「だからシオン殿下は戻ってこられた」


 クノエは少し考えて。


 それから、照れたように笑った。


「じゃあ私、昔から殿下を誘拐してたみたいですね」


「誘拐されていたな」


 隣でシオンが真顔で頷く。


「完全に」


「えぇ……」


「七歳の頃からずっとお前しか見えてなかった」


 クノエが真っ赤になる。


「そんな前から!?」


「言ってなかったか?」


「聞いてません!」


 老魔導師が咳払いした。


「……仲が良いのは結構ですが、ここ会議室ですぞ」


 二人は同時に謝った。


     ◇


 夜。


 バルコニーには星が広がっていた。


 クノエは夜空を見上げる。


 ふと、日本のことを思い出そうとして。


 そして気づく。


 もう、輪郭が曖昧だ。


 コンビニの灯りも。


 電車の音も。


 思い出せない。


 少しだけ寂しい。


 でも。


「クノエ?」


 後ろからシオンの声。


 振り返る。


 彼がいる。


 生きて。


 笑って。


 自分を見ている。


 それだけで、胸が温かくなった。


「……なんでもありません」


 クノエは笑った。


 甘い香りが、夜風に溶ける。


 シオンは彼女を抱き寄せた。


「冷えるぞ」


「殿下は過保護です」


「知ってる」


 低く笑う声。


 クノエは彼の肩に額を預ける。


 遠い世界の記憶は、少しずつ消えていく。


 でもきっと、それでいい。


 今の自分の帰る場所は。


 帰りたい場所は。


 もう、ここだから。


 春の香りが、静かに夜へ溶けていった。


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