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第五話
聖女ユリの拘束は、夜明け前に行われた。
まだ空の色が変わりきらない時間。王城の廊下に、重い靴音が響く。
ユリが寝巻きのまま扉を開けたところで、その足は止まった。
騎士が三人。
その後ろに騎士団長。
そして、シオン。
薄青紫の髪を乱しもせず、王子はただ静かに彼女を見ていた。そこに、以前の熱はない。視線は冷えきっていて、まるで初めて会う他人を見るみたいだった。
「……シオン様?」
ユリはすぐに表情を変えた。
怯えた少女の顔。
守ってあげたくなる声。
震える指先で胸元を押さえ、潤んだ瞳を上げる。
「怖いです……どうして、こんな……」
だが、シオンは動かなかった。
ひとつ息を吐いて、告げる。
「聖女ユリ」
低い声だった。
「殺人未遂、並びに精神干渉の疑いで拘束する」
ユリの顔から血の気が引いた。
「……は?」
「証言は上がっている」
「し、知らない……!」
首を振る動きは大きいのに、声だけは妙に上ずっていた。
「私、そんなことしてない……!」
「まだ続けるのか」
静かな一言だった。
怒鳴られたわけでもないのに、空気が変わる。
ユリの喉がひくついた。
その瞬間に分かった。
もう通じない。
この男は、本来の自分に戻ってしまったと。
「シオン様……私は、貴方のために……」
「黙れ」
きっぱりと遮られる。
ユリの肩が跳ねた。
シオンは一歩も近づかないまま、冷えた目で彼女を見下ろした。
「貴様に触れられるたび、自分の中の何かが腐っていく気がした」
ユリの表情が固まる。
「最初は、私が弱いだけだと思った。流されただけだと、そう思い込もうとした」
シオンは自分の拳を見下ろす。
白くなるほど握りしめた指先が、かすかに震えていた。
「違った。気づいていながら、止まれなかった」
騎士団長が一枚の書類を差し出す。
押収した魔導具の記録。
香料。
依存性の高い術式。
精神を鈍らせる異界由来の魔術符。
ユリの顔色が、見る間に変わっていく。
「……ちが」
「クノエを殺そうとした時点で、終わりだ」
その名前が出た瞬間、シオンの声が低く沈んだ。
ユリは、息を呑む。
本気だ。本気で、自分を許さないつもりだ。
「連れていけ」
「はっ」
騎士がユリの腕を取る。
「やっ、離して!」
ユリはようやく取り繕うのをやめた。
「ふざけんな! なんで私だけ! なんで私がこんな目に遭うのよ!」
足をばたつかせ、掴まれた腕を振りほどこうとする。
「全部あの女のせいじゃない! クノエがいるから! あいつがいるから、何もかも――」
廊下が静まり返った。
ユリは荒い息をついたまま、目を見開く。
しまった、という顔をした。
だが、もう遅かった。
シオンはただ、静かに言った。
「だから他人を害していい理由にはならない」
ユリの唇がわななく。
「私は、お前に害された」
淡々とした声だった。
「クノエも傷つけた」
それだけで、ユリは肩を強ばらせる。
シオンは最後に、一度だけ目を伏せた。
「もう二度と、私たちの前に現れるな」
◇
地下牢は、冷えていた。
石壁から湿気がにじみ、足元の藁は古く、薄暗い灯りだけが揺れている。
ユリは膝を抱えて蹲っていた。
「……なんなの」
声はかすれていた。
寒い。臭い。最悪だった。
こんな場所に落ちるはずじゃなかった。
ユリは爪を噛み、苛立ちを飲み込む。
前の世界でも、こんなふうに終わったことがあった。
必要とされるうちは、上手くいく。
だが一度つまずけば、すぐに捨てられる。
だから先に利用する側へ回った。
「……なんで」
ぽたりと涙が落ちる。
「なんで、あいつだけ」
クノエ。
静かで、目立たなくて、あんなに地味な女なのに。
シオンは、結局あの女を選んだ。
死んでも、最後にはクノエに戻った。
「……ずるい」
小さく呟いて、ユリは顔を覆った。
◇
一方その頃、クノエは医務室に呼ばれていた。
部屋には宮廷魔導師たちが並んでいる。
皆、真面目な顔だ。
それだけで、胸が少しざわついた。
「クノエ嬢」
老魔導師が静かに口を開く。
「貴女には、“冥香”の血が流れています」
「……冥香?」
「死者を導く香を宿す一族です」
クノエは瞬きをした。
「古い文献では、魂の案内人と記されています」
そう言われても、すぐには実感が湧かない。
けれど、思い返せば確かにおかしかった。
幼い頃から時々、人に香りのことを言われた。
安心する匂いだ、と。
懐かしい、と。
そして、あの夜。
冥界まで届いた理由も、そこにあるのだろう。
「本来なら、途絶えた血筋です」
老魔導師は続けた。
「死者蘇生など、記録の上でも数えるほどしかありません。それを成したとなれば、何かを失ったはずです」
その言葉に、クノエは小さく首を傾げた。
「……失った、のでしょうか」
「代償はありましたか?」
問われて、少しだけ黙る。
そして、ぽつりと答えた。
「夢を、見なくなりました」
「夢?」
「前の世界の夢です」
クノエは視線を落とす。
「日本にいた頃の記憶が、時々、夢に混ざって出てきていました。雨の匂いとか、街の明かりとか……そういう、些細なものです」
懐かしいものだった。
遠くて、でも確かに自分のものだった。
「でも、蘇生してからは、一度も見ていません」
魔導師たちが顔を見合わせる。
シオンだけが息を止めた。
前世との繋がりや記憶の温度。
クノエは、それを失ったことにまだ気づいていない。
「……十分だ」
シオンが、かすれた声で言った。
「殿下?」
クノエが首を傾げるより早く、彼は彼女を抱き締めていた。
「っ、で、殿下!?」
突然のことに、クノエの顔が一気に赤くなる。
だがシオンは離さない。
腕に込められた力は、どこか震えていた。
「……もう二度と」
耳元で、低い声がする。
「お前一人に、何かを失わせたりしない」
クノエはしばらく瞬きを繰り返して、それから、そっと彼の背に手を回した。
「……はい」
甘い香りが、静かに広がる。
シオンは目を閉じる。
この匂いだけは、もう失いたくないと思った。
◇
数日後。
王城の大広間は、貴族たちで満ちていた。
ざわめきの中、シオンは玉座の前に立っている。
その隣に、クノエもいた。
彼女は緊張で指先を握っていたが、逃げる気はなかった。
「本日、皆に伝えることがある」
シオンの声が広間に落ちる。
「以前、私はクノエ・リスティアとの婚約を破棄した」
ざわ、と空気が揺れた。
誰もが息を呑む。
「だが、あれは誤りだった」
シオンは真っ直ぐクノエを見た。
「私は彼女を深く傷つけた」
そして、王子は頭を下げた。
公衆の面前で。
それを見た貴族たちの間に、ざわめきが広がる。
「殿下……」
クノエの唇がわずかに開く。
「許されるとは思っていない」
シオンは続ける。
「だが、それでも私は」
一歩、進む。
広間の視線が一斉に集まる中、彼はクノエの前に立った。
「もう一度、お前の隣に立ちたい」
青い瞳が揺れている。
クノエは、そのことに気づいてしまった。
胸が締めつけられる。
少しだけ笑って、彼女は言った。
「……ずるいです」
「え?」
「そんな顔をされたら」
視界が滲む。
「断れないじゃないですか」
目尻に小さなしずくが落ちた。




