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冥花の婚約者~死んだはずのあなたを、私は香りで連れ戻した~  作者: 硝子細工の森


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第四話


 ユリは焦っていた。


 王城の空気が変わっている。


 それは目に見える変化ではない。だが、確かに人々の態度が違っていた。


 以前なら、侍女たちは彼女の顔色を窺い、騎士たちは声を掛けるだけで頬を染めた。少し困った顔を見せれば助けようとし、涙を滲ませれば誰かが味方になった。


 それが最近は違う。


 誰もが丁寧ではある。


 しかし、その丁寧さの奥に距離があった。


 まるで触れてはいけないものを扱うような、不自然な遠慮がある。


 自室に戻った途端、ユリは鏡台を蹴り飛ばした。


 激しい音が響き、香油の瓶が床へ転がる。


「ふざけんな……」


 鏡の中に映る顔は、聖女のものではなかった。


 苛立ちに歪み、唇を噛み締めた女の顔だった。


 転移した時は運命が味方したのだと思った。


 黒髪黒目のまま若返り、身体は十六歳ほどになっていた。


 人生をやり直せる。


 本気でそう思った。


 前の世界に未練などなかったからだ。


 薄汚れたアパート。


 煙草の臭い。


 酔った男たち。


 安い金。


 その日を生きるためだけの毎日。


 ユリは男を扱う術を覚えて生きてきた。


 そうしなければ生き残れなかった。


 甘えることも、泣くことも、弱い女を演じることも、生きるための技術だった。


 だからこの世界へ来た時、拍子抜けした。


 男たちがあまりにも単純だったからだ。


 少し頼れば守ろうとする。


 笑えば喜ぶ。


 縋れば勘違いする。


 まるで最初から答えを知っているゲームみたいだった。


 シオンも同じはずだった。


 少なくとも、あの夜までは。


 鏡台に爪を立てながら、ユリは顔を歪める。


 脳裏に浮かぶのはクノエだった。


 あの女だけは最初から邪魔だった。


 男に媚びるわけでもない。


 目立とうともしない。


 なのに気付けば、人の中心にいる。


 誰かに守られるのではなく、誰かの帰る場所になっている。


 シオンが本当に見ていたのも、最初からあの女だった。


 だから気に入らなかった。


 奪いたかった。


 壊したかった。


 そして自分の方が上だと証明したかった。


 だが結局、最後にシオンを取り戻したのはクノエだった。


 ユリは唇を噛む。


 そして、静かに呟いた。


「……邪魔」


 その声は驚くほど冷たかった。


「消えてくれればいいのに」


     ◇


 クノエは中庭を歩いていた。


 春の陽射しの中で、白いリナリアが風に揺れている。


 甘い花の香りを吸い込みながら、クノエは小さく息を吐いた。


 最近のシオンはずっと苦しそうだった。


 以前のように穏やかに笑わない。


 ふとした瞬間に黙り込み、自分を責めるような顔をする。


 無理もないと思う。


 けれど見ているこちらまで苦しくなった。


「どうしたらいいんだろう……」


 呟いた時だった。


 背後で草を踏む音がした。


 振り返る。


 見慣れない男が立っていた。


 黒装束。


 しかも一人ではない。


 木陰から、さらに二人が姿を現す。


 嫌な予感がした。


 身体が強張る。


「どなたですか……?」


 返事はない。


 男たちは顔を見合わせると、一気に距離を詰めてきた。


 クノエは反射的に後退る。


 しかし間に合わなかった。


 腕を掴まれる。


「っ!」


 強い力だった。


 逃げようとしても振りほどけない。


「静かにしてもらおう」


 低い声が耳元で響く。


 恐怖で身体が動かなくなる。


 その瞬間だった。


「――離れろ!」


 怒号が響いた。


 次の瞬間、銀色の閃光が走る。


 男の一人が吹き飛び、地面を転がった。


 クノエは目を見開く。


 剣を握っていたのはシオンだった。


 薄青紫の髪が風に乱れている。


 普段の穏やかな面影はない。


 その瞳には、凍えるほど鋭い怒りが宿っていた。


「殿下……」


 思わず名前を呼ぶ。


 だがシオンは答えない。


 視線は男たちだけを見据えていた。


 残った男の一人が魔法を放つ。


 炎が唸りを上げる。


 しかしシオンは真正面から踏み込み、その軌道ごと斬り裂いた。


 爆ぜる熱風の中を突き抜け、剣が男の肩を切り裂く。


 悲鳴が上がった。


 残る二人が逃げようとする。


 だが、すでに遅い。


「逃がすと思うか」


 低い声と共に魔法陣が展開する。


 青白い光が地面を走り、無数の鎖が飛び出した。


 男たちの身体を絡め取り、容赦なく地面へ縫い付ける。


 抵抗は一瞬だった。


 静寂が戻る。


 シオンはようやく振り返った。


 その途端、瞳から殺気が消える。


「怪我は」


 早足で近づいてくる。


「怪我はないか」


 クノエは小さく頷いた。


「大丈夫です」


 だがシオンは納得しない。


 肩や腕を確認しようとして、途中で手を止める。


 触れていいのか迷ったのだろう。


 その様子に、クノエは少しだけ笑った。


「殿下の方が怖い顔をしています」


 シオンははっとしたように目を伏せる。


 そして苦く笑った。


「……間に合わなかったらと思った」


 掠れた声だった。


 その言葉に滲む恐怖は隠しきれていない。


 クノエの胸が温かくなる。


 そっと彼の袖を摘まんだ。


「助けてくださって、ありがとうございます」


 シオンはしばらく何も言わなかった。


 やがて小さく息を吐く。


「当然だ」


 その声は静かだった。


 けれど決意だけははっきりと伝わった。


「もう二度と、お前を傷つけさせない」


     ◇


 捕らえた男たちは、驚くほどあっさり口を割った。


 依頼主の名を聞いた瞬間、尋問室の空気が凍り付く。


「聖女ユリです」


 報告を受けた騎士団長は眉をひそめた。


「理由は」


「クノエ様が邪魔だったと」


「口封じも兼ねていたそうです」


 沈黙が落ちる。


 シオンは何も言わなかった。


 ただ静かに話を聞いている。


 その静けさが逆に恐ろしかった。


 騎士団長が低く言う。


「殿下。これ以上は庇いきれません」


 シオンはゆっくり顔を上げた。


「庇う?」


 小さく笑う。


 乾いた笑いだった。


「誰を」


 その問いに答えられる者はいなかった。


     ◇


 一方その頃。


 ユリは自室で落ち着きなく部屋を歩き回っていた。


 男たちが戻らない。


 予定なら、とっくに報告が来ているはずだった。


 胸騒ぎがする。


 嫌な予感ばかりが膨らんでいく。


 そのとき廊下の彼方から何かが近づいてくる音が聞こえた。

 


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