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第二話
冥界は静かだった。
音がない。
風もない。
ただ灰色の空が広がり、黒い川がゆっくりと流れている。
その両岸には白い花が咲いていた。
どこまでも。
どこまでも。
果てが見えないほどに。
不思議と恐ろしくはなかった。
むしろ優しい場所だと、クノエは思う。
ここは苦しみから解放された者たちの行き着く先だから。
だからこそ。
一度辿り着いた魂は、決して戻らない。
本来なら。
「……シオン殿下」
雨に濡れた石床の上で、クノエは胸を押さえた。
冷たい雨が降り続いている。
それなのに、彼女の周囲だけは甘い香りに包まれていた。
感情が揺れると香りが強くなる。
昔からそうだった。
熱にうなされた侍女が、その香りを嗅いだ途端に泣き出したことがある。
『懐かしい』
そう呟きながら。
死の間際だった老人が、彼女の手を握って微笑んだこともあった。
『帰りたくなる匂いだ』
と。
クノエはずっと恐れていた。
自分が何者なのか分からなくて。
人間ではない何かかもしれないと思って。
けれど今は、その力に縋るしかない。
「お願い……」
涙が頬を伝う。
「帰ってきてください」
白い花畑の向こうで、シオンが足を止めた。
振り返る。
迷子の子どものような顔だった。
『……クノエ?』
声が響く。
耳ではない。
直接心に届く声だった。
『どうしてここにいる』
「戻ってきてください……!」
クノエは必死に手を伸ばした。
「お願いです……!」
シオンは困ったように笑う。
その笑顔は、クノエの知る彼だった。
優しくて。
少し不器用で。
泣きたくなるほど懐かしい。
『優しいな』
静かな声。
『お前は本当に優しい』
「そんなことありません」
『ある』
シオンは首を横に振った。
『だから私は戻れない』
クノエの心臓が強く脈打つ。
『私はお前を傷つけた』
「違います」
『違わない』
苦しそうに目を伏せる。
『婚約を破棄した』
『大勢の前で辱めた』
『信じるべき人間を信じなかった』
その一つ一つが、自分を裁く刃のようだった。
『そんな人間が生きていてはいけない』
「そんなことありません!」
叫ぶ。
喉が裂けそうだった。
「それでも私は――」
言葉が詰まる。
涙で前が見えない。
でも。
もう逃げたくなかった。
「好きなんです……!」
白い花が揺れた。
甘い香りが広がる。
「ずっと好きでした」
声が震える。
「今も好きです」
シオンの瞳が揺れた。
「だから帰ってきてください……!」
沈黙。
長い沈黙。
やがてシオンは小さく笑った。
『……ずるいな』
泣きそうな顔だった。
『そんなことを言われたら』
彼の足がわずかにこちらへ向く。
『帰りたくなる』
その瞬間だった。
黒い川が大きく波打った。
世界が震える。
白い花が一斉に伏せた。
クノエは息を呑む。
花畑の果て。
巨大な黒い門が立っていた。
いつからそこにあったのか分からない。
空より高く。
山より大きい。
見るだけで膝をつきたくなるような威圧感。
その門の前に、“それ”はいた。
人の形をしている。
けれど顔がない。
影が人型を真似ているだけのような存在だった。
『生者』
声が響く。
世界そのものが喋ったような声だった。
『境界を越えるな』
クノエの身体が震える。
本能が警告していた。
逆らってはいけない。
目を合わせてはいけない。
これは人間が触れてよい存在ではない。
それでも。
クノエはシオンを見た。
彼の輪郭が少しずつ薄れている。
冥界に溶け始めている。
今ならまだ間に合う。
でも、もうすぐ届かなくなる。
「……嫌です」
震える声で言った。
『理を乱す気か』
「返してください」
『死者は死者のものだ』
「嫌です」
自分でも驚くほど真っ直ぐな声だった。
「この人を失いたくありません」
番人が沈黙する。
やがて低い声が落ちた。
『何を差し出す』
クノエは目を瞬く。
『命を覆すなら代償が要る』
空気が重くなる。
『寿命か』
『記憶か』
『未来か』
静かな声だった。
けれど拒絶は許されない。
クノエは少しだけ考えた。
本当に少しだけ。
そして笑った。
「未来です」
シオンが目を見開く。
『クノエ』
「私の未来を差し出します」
怖くないと言えば嘘になる。
それでも迷わなかった。
「殿下が生きられるなら」
『やめろ!』
シオンが叫ぶ。
初めて怒りを露わにした。
『そんなことをするな!』
「嫌です」
『私を選ぶな!』
彼の声が震える。
『私はお前を裏切った!』
『傷つけた!』
『忘れろ!』
「忘れられません!」
クノエも叫んだ。
涙が止まらない。
「優しくて!」
「真面目で!」
「不器用で!」
「いつも誰かのために頑張っていて!」
息が苦しい。
それでも言葉は止まらなかった。
「私は殿下といる時間が好きなんです!」
静寂。
長い静寂。
番人はクノエを見下ろした。
顔はない。
それなのに見られていると分かる。
『娘』
低い声が響く。
『お前の香りは境界を越える』
甘い香りがさらに濃くなる。
『生と死を結ぶ道標』
空間が震えた。
『ならば契約を認めよう』
クノエの身体が熱を帯びる。
『対価は受け取る』
その言葉にシオンが顔を歪めた。
『やめろ……』
だが番人は続ける。
『死者を還す』
次の瞬間。
眩い光が溢れた。
シオンの姿が光に包まれる。
彼は最後にクノエを見た。
泣きそうな顔で。
それでも微笑んでいた。
『ありがとう』
そして光の中へ消えた。
◇
王城は混乱していた。
「殿下が塔から転落した!?」
「医師を呼べ!」
「まだ息は!?」
人々が走り回る。
怒号が飛び交う。
その中心から離れた一室で、ユリは爪を噛んでいた。
「……最悪」
小さく吐き捨てる。
予定が狂った。
シオンは優秀だった。
だから利用価値があった。
多少執着が強くなっても構わないと思っていた。
だが。
「壊れるのが早すぎる」
眉をひそめる。
洗脳された人間が自殺するなど想定外だった。
普通なら。
もっと長く利用できるはずだったのに。
「面倒ね……」
そう呟いた瞬間。
扉が勢いよく開いた。
ユリは即座に表情を作り替える。
目を潤ませる。
唇を震わせる。
「シオン様……っ」
完璧な悲劇のヒロイン。
そのはずだった。
だが入ってきた騎士は、彼女を見るなり妙な顔をした。
「聖女様」
「はい……」
騎士の声が震えている。
信じられないものを見た人間の声だった。
「殿下が」
一拍。
「目を覚まされました」
ユリの表情が固まる。
騎士は続けた。
「そして最初に呼ばれたお名前は――」
世界が静止したような気がした。
「クノエ様です」
ユリの笑顔が、完全に消えた。




