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冥花の婚約者~死んだはずのあなたを、私は香りで連れ戻した~  作者: 硝子細工の森


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第一話


 王都の春は、花の香りが濃い。


 とりわけ王城の庭園はそうだった。


 白薔薇が咲き誇り、薄桃色のラナンキュラスが風に揺れる。足元には妖精草の青い花が散りばめられ、魔法で温度を保たれた庭園は、一年を通して春の終わりのような空気をまとっていた。


 けれどクノエは、この庭園が少し苦手だった。


 花の香りが強すぎると、自分の匂いが分からなくなるから。


「クノエ様?」


 侍女の声に、クノエは我に返った。


「あ……ごめんなさい」


「本日の夜会ですが、王子殿下のお隣のお席になります」


「……はい」


 胸が小さく跳ねる。


 シオン殿下の隣。


 ただそれだけで、今日一日が特別な日になる。


 昔からそうだった。


 本当に、ずっと。


 初めて会ったのは七歳の頃だ。


 王宮の池に落ちたクノエを助けてくれたのが、当時のシオンだった。


 水を滴らせて震えるクノエを見て、少年は困ったように眉を下げた。


『風邪を引く』


 そう言って上着を掛けてくれて。


 そのあと、少し不思議そうな顔で呟いた。


『……君、すごくいい匂いがする』


 今でも忘れていない。


 花でも香水でもない。


 クノエ自身から漂う香り。


 甘く、柔らかく、どこか懐かしい匂い。


 昔から、人に言われることはあった。


 安心する香りだと。


 けれどシオンだけは違った。


 彼は香りだけではなく、クノエ自身を見てくれた。


 だから好きになった。


 気づけば、どうしようもないほど。


「……殿下」


 窓の向こうへ視線を向ける。


 空はよく晴れていた。


 なのに胸の奥には、重たい雲が居座っている。


 最近のシオンはおかしかった。


 以前はもっと穏やかな人だった。


 聡明で、誠実で、誰にでも優しい。


 クノエが黙り込めば、急かさず待ってくれる人だった。


 それなのに今は違う。


 目が合っても、どこか焦点が合わない。


 時折こちらを見るくせに、まるで見ていないような目をする。


 先日の茶会でもそうだった。


 何か言いかけて。


 苦しそうに眉を寄せて。


 それでも結局、隣にいた少女へ視線を向けた。


「最近の殿下は……怖い」


 思わず零れた言葉に、侍女が顔を曇らせた。


「聖女様が来られてからですわね」


 クノエの指先が止まる。


 聖女ユリ。


 一年前、異世界から現れた少女。


 黒髪黒目の小柄な美少女で、人懐こく、守ってあげたくなるような雰囲気を持っていた。


 男たちは皆、彼女に惹かれた。


 そしてシオンも。


 最初は警戒していたはずだった。


『異世界人だからといって、簡単に信用してはいけない』


 そう言っていたのに。


 半年も経たないうちに、彼の目は変わった。


 熱に浮かされたような視線。


 何かに魅入られたような執着。


 クノエはそれを見るたびに寒気を覚えた。


 あれは恋ではない。


 もっと歪で、不気味な何かだ。


 だが誰も気づかない。


 ユリは完璧だった。


 泣くのも上手い。


 甘えるのも上手い。


 男との距離の詰め方も。


 まるで最初から答えを知っているように自然だった。


「クノエ様はお優しすぎます」


 侍女が小さく言う。


「もっと殿下をお責めになっても――」


「怒れないわ」


 クノエは苦笑した。


「好きだから」


 侍女は黙り込んだ。


 それ以上の言葉はなかった。


     ◇


 夜会は最悪の形で幕を開けた。


「クノエ・リスティア」


 不意に音楽が止む。


 ざわめいていた広間が静まり返った。


 人々の視線が一点へ集まる。


 壇上に立つシオン。


 その隣にはユリ。


 彼女は怯えたようにシオンの腕へしがみついていた。


 嫌な予感がした。


 胸の奥で何かが軋む。


「お前との婚約を破棄する」


 その一言で。


 世界から音が消えた。


「……え」


 自分の声が遠い。


「お前は聖女ユリを長期間にわたって虐げた」


 違う。


「陰湿な嫌がらせを繰り返した」


 違う。


「私はもう見過ごせん」


 違う。


 そんなこと、一度もしていない。


 叫びたいのに声が出なかった。


「私はユリを愛している」


 シオンが言う。


 その瞬間だった。


 ユリが笑った。


 本当に一瞬だけ。


 勝者の笑み。


 誰にも見えない角度で。


 けれどクノエは見てしまった。


 背筋を冷たいものが走る。


 ユリは泣くふりをしながらシオンに寄り添う。


「やめてください、シオン様……クノエ様がお可哀想です……」


 震える声。


 だが瞳だけは笑っていた。


 理解する。


 全部、この女の仕組んだことだ。


 それなのに。


 シオンは気づいていない。


 いや。


 気づけないのだ。


 まるで深い霧の中に閉じ込められたように。


「……殿下」


 ようやく声が出た。


「本当に……そう思っているのですか」


 シオンの眉がわずかに動く。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ。


 苦しそうな表情が浮かんだ。


 クノエは見逃さなかった。


 まだ残っている。


 完全ではない。


 まだ彼自身が。


 けれどユリが腕を抱き締めた途端、その迷いは消えた。


「衛兵」


 冷たい声だった。


「クノエを連れていけ」


 広間がざわめく。


 誰かが息を呑む。


 侍女は泣きそうな顔をしていた。


 それでもクノエは抵抗しなかった。


 最後までシオンを見つめていた。


 助けて。


 そう言いたかった。


 けれど言えなかった。


 彼の方が、ずっと苦しそうな顔をしていたから。


     ◇


 その夜。


 クノエは屋敷の部屋で泣いていた。


 声を押し殺しながら。


 涙が止まらない。


 胸が痛い。


 苦しい。


 呼吸をするたびに傷口を抉られるようだった。


「……なんで」


 ぽたりと涙が落ちる。


「なんで、殿下なの……」


 クノエは転生者だった。


 前世は日本という国で生き、事故で命を落とした。


 その記憶を持ったまま、この世界に生まれた。


 誰にも話したことはない。


 話せるはずもない。


 けれど一つだけ、昔から分かっていたことがある。


 自分は死に近い。


 夜になると聞こえることがあるのだ。


 誰にも聞こえない声が。


 死者たちの囁きが。


 だから分かってしまった。


 今夜。


 シオンが死ぬ。


「……っ」


 立ち上がる。


 嫌な予感ではない。


 確信だった。


 彼は優しい。


 責任感が強い。


 だからこそ、自分がしてしまったことを思い出したら耐えられない。


 雨が降り始めていた。


 王城の塔。


 一番高い場所。


 そこに彼はいた。


「殿下!!」


 叫ぶ。


 振り返ったシオンを見て、クノエは息を呑んだ。


 顔色が悪い。


 まるで死人のようだった。


「……来るな」


 掠れた声。


「クノエ……頼む」


「嫌です!」


 涙を流しながら駆け寄る。


「帰りましょう……お願いです……!」


「私は……お前に何をした……?」


 声が震えていた。


「思い出したんだ……全部」


 雨と涙が頬を伝う。


「私はお前を愛していたのに」


 胸が締め付けられる。


「なのに、あの女に触れられるたび……頭がおかしくなって……」


 シオンは髪を掴んだ。


「気持ち悪い……!」


 悲鳴だった。


「私は何を言った!? 何をした!? お前に!」


「殿下、違うんです!」


「違わない!」


 シオンは叫ぶ。


「私はお前を傷つけた!」


 そして。


 壊れたように笑った。


「だから終わらせる」


「待って――!」


 手を伸ばす。


 届かない。


 一歩遅かった。


 シオンの身体が夜の闇へ落ちていく。


「――あ」


 声にならない。


 雨が降る。


 世界が遠い。


 クノエはその場に崩れ落ちた。


 その瞬間だった。


 世界の奥で何かが開く。


 冥界。


 死者の国。


 冷たい川。


 薄暗い花畑。


 そこへ向かって落ちていくシオンの魂が見えた。


「……待って」


 甘い香りが広がる。


 クノエ自身から漂う香り。


 魂を導き、呼び戻す香り。


「お願い……戻ってきて……!」


 冥界の彼方で。


 振り返ったシオンが、今にも泣き出しそうな顔をした。


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